「文王 (楚)」の版間の差分

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[[武王 (楚)|武王]]と鄧曼のあいだの子として生まれた。[[紀元前690年]]、武王が死去すると、後を嗣いで楚王となった。[[紀元前688年]]、文王は軍を率いて申を攻撃した。途中に[[鄧]]に立ち寄ったさい、鄧の三甥による文王暗殺計画があったが、鄧の祁侯が三甥を止めたため実行されなかった。[[紀元前684年]]、軍を発して[[蔡]]軍を莘で撃破し、蔡の[[哀侯 (蔡)|哀侯]]を連れ帰った。[[紀元前680年]]、文王は蔡の哀侯の甘言に乗って息を攻め滅ぼし、息媯を連れ帰ったが、哀侯に踊らされたことに気づくと、蔡に攻め入った。[[紀元前678年]]、軍を発して鄧を攻撃し、これを滅ぼした。この年の秋、[[鄭]]を攻撃して櫟に達した。
 
[[紀元前676年]]、[[:zh:巴国|巴]] ({{interlang|zh|巴国}}) 人が楚の那処権邑を占領した。那処権邑の尹の閻敖が逃亡したことから、文王は閻敖を処刑した。このため閻敖の一族が反乱を起こし、巴人はこれにつけこんで楚に侵攻した。紀元前675年春、文王は巴軍を迎撃したが、津で大敗した。引き返すと、鬻拳が入城させないため、やむなく黄に転進して、黄軍を踖陵で撃破した。凱旋の途中、湫で病にかかり、6月庚申に死去した。在位15年。
 
== 参考文献 ==
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