「エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = エルンスト・アウグスト3世
| 各国語表記 = {{lang|de|Ernst August III.}}
| 家名・爵位 = [[ハノーヴァー朝|ハノーファー家]]
| 画像 = Ernst August 1916.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 続柄 =
| 称号 = ハノーファー王子<br>ブラウンシュヴァイク公
| 全名 = {{Collapsible list|title=一覧参照|{{lang|de|Ernst August Christian Georg}}<br>エルンスト・アウグスト・クリスティアン・ゲオルク}}
| 全名 =
| 身位 =
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| 出生日 = {{生年月日と年齢|1887|11|17|no}}
| 生地 = {{AUT1867}}、[[ウィーン]]、ペンツィング]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1887|11|17|1953|1|30}}
| 没地 = {{BRD}}、[[ニーダーザクセン州]][[ハノーファー]]、マリエンブルク城
| 埋葬日 = {{BRD}}、[[ニーダーザクセン州]][[ハノーファー]]、[[ヘレンハウゼン王宮庭園]]霊廟
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[ヴィクトリア・ルイーゼ・フォン・プロイセン|ヴィクトリア・ルイーゼ]]
| 子女 = {{Collapsible list|title=一覧参照|[[エルンスト・アウグスト・フォン・ハノーファー (1914-1987)|エルンスト・アウグスト]]<br>[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ハノーファー (1915-2006)|ゲオルク・ヴィルヘルム]]<br>[[フリデリキ (ギリシャ王妃)|フリーデリケ]]<br>[[クリスティアン・フォン・ハノーファー (1919-1981)|クリスティアン]]<br>[[ヴェルフ・ハインリヒ・フォン・ハノーファー|ヴェルフ・ハインリヒ]]}}
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 父親 = [[ハノーファー王国|ハノーファー]]王太子[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王太子)|エルンスト・アウグスト2世]]
| 母親 = [[テューラ・ア・ダンマーク (1853-1933)|テューラ・ア・ダンマーク]]
| 役職 =
| 宗教 = [[キリスト教]][[ルーテル教会]]
| サイン =
}}
'''エルンスト・アウグスト'''(<span {{lang="-de" xml:lang="de">'''|Ernst August'''</span>}}, [[1887年]][[11月17日]] - [[1953年]][[1月30日]])は、[[ブラウンシュヴァイク公国]]の最後の[[ブラウンシュヴァイク君主一覧|公]](在位:[[1913年]][[11月2日]] - [[1918年]][[11月8日]])。全名は'''エルンスト・アウグスト・クリスティアン・ゲオルク'''(<span lang="de" xml:lang="de">'''Ernst August Christian Georg'''</span>)。[[ハノーファー王国|ハノーファー]]王太子[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王太子)|エルンスト・アウグスト]]の三男で、[[1923年]]から死去まで「'''エルンスト・アウグスト3世'''」としてハノーファー王家の家長でもあった。
 
== 生涯 ==
[[1887年]][[11月17日]]、元ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト(2世)とその妃であった[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の王女[[テューラ・ア・ダンマーク (1853-1933)|テューラ]]の間に第6子(末子)として[[ウィーン]]近く[[{{仮リンク|ペンツィング]] (ウィーン)|label=ペンツィング|en|Penzing (Vienna)}}で生まれた。父エルンスト・アウグスト(2世)は[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の曾孫にあたり、イギリス王子の称号と[[イギリス貴族]][[カンバーランド公|カンバーランド=テヴィオットデイル公]]の爵位を持っていた。2人の兄がともに先立ったため、エルンスト・アウグストはハノーファー王家家長とカンバーランド公位の[[法定推定相続人]]となった。
 
* 混乱を避けるため便宜上、以後は本記事の人物(3世)を「エルンスト・アウグスト」と、同名の父(2世)を「カンバーランド公」と表記する。
ゲオルク・ヴィルヘルムが[[1912年]][[5月20日]]に自動車事故によって死去した後、[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]はカンバーランド公に対して弔文を送った。この返礼のためにカンバーランド公はエルンスト・アウグストを[[ベルリン]]へ遣ったが、この時彼はヴィルヘルム2世の一人娘であるプロイセン王女[[ヴィクトリア・ルイーゼ・フォン・プロイセン|ヴィクトリア・ルイーゼ]]と逢い、2人の交際が始まった。
 
1913年[[5月24日]]、エルンスト・アウグストとヴィクトリア・ルイーゼは[[{{仮リンク|マリエンブルク城]]|label=マリエンブルク城|en|Marienburg Castle (Hanover)}}で結婚式を挙げた。これによってハノーファー家と[[ホーエンツォレルン家]]の間の対立関係に終止符が打たれた。2人の結婚式は[[第一次世界大戦]]前に[[ヨーロッパ]]諸国の君主(イギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]やデンマーク王クリスチャン9世の子孫が多かった)が一堂に会する最後の機会となった。具体的にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と皇后[[アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク|アウグステ・ヴィクトリア]]、カンバーランド公と妻のデンマーク王女テーラ、イギリス王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]と王妃[[メアリー・オブ・テック|メアリ]]、[[ロシア君主一覧|ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]と皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ]]らが参列した。また先立って2月に行なわれた婚約発表においてエルンスト・アウグストは皇帝に対して[[忠誠宣誓 (ドイツ)|忠誠宣誓]]を行い、騎兵大尉及び第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"(<span lang="de" xml:lang="de">[[:de:Husaren-Regiment von Zieten (Brandenburgisches) Nr. 3|Brandenburgisches Husarenregiment Nr. 3 "von Zieten"]]</span>)の中隊指揮官に任じられた。なおこの連隊はかつてエルンスト・アウグストの祖父ゲオルク5世や曽祖父[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王)|エルンスト・アウグスト]]が大佐として隊長を務めていた。
 
1913年[[10月27日]]、カンバーランド公はブラウンシュヴァイク公位に対する継承権の放棄を宣言し、翌日[[連邦参議院]]はエルンスト・アウグストにブラウンシュヴァイク公を与えることを決議した。エルンスト・アウグストは同年[[11月1日]]に[[ブラウンシュヴァイク城]]で即位し、大佐に昇進して第3騎兵連隊"フォン・ツィーテン"の連隊長に任じられた。
 
[[第一次世界大戦]]中、エルンスト・アウグストは[[陸軍少将]]の地位にあった。大戦末期に[[ドイツ革命]]が勃発すると、1918年11月8日に退位宣言に署名し君主権を失い、公国は[[ヴァイマル共和政]]の[[{{仮リンク|ブラウンシュヴァイク自由州]]|label=ブラウンシュヴァイク自由州|en|Free State of Brunswick}}となった。また彼が第一次世界大戦において[[ドイツ陸軍]]で軍務に就いていたことから、イギリス王ジョージ5世が[[1919年]]に発布した[[称号剥奪法]]によって父が持っていたカンバーランド公の爵位が剥奪された。このため[[1923年]]に父が死ぬとハノーファー家の当主は継承したが、カンバーランド公としては父の爵位剥奪と死によって断絶した。
 
1953年1月30日、マリエンブルク城で65歳で死去した。