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== 経歴 ==
[[道武帝]]と賀夫人([[献明賀皇后]]の妹)のあいだの子として生まれた。[[403年]]、清河王に封ぜられた。拓跋紹は素行が悪く、教誨に従わず、遊里や巷間で遊び歩き、道行く人から物を奪い、犬や豚に弓を射かけるなど、ふざけまわっていた。[[409年]]10月、道武帝が怒って賀夫人を譴責し、賀夫人を宮殿に幽閉し、殺してしまおうとした。賀夫人がひそかに拓跋紹の助けを求めると、拓跋紹は夜中に部下と宦官数人を引き連れて、宮中に侵入して道武帝を殺害した。翌日、宮殿の門は日中になっても開かれなかった。拓跋紹は詔と称して百官を召集し、西宮端門の前に北面して立ち、「公らは誰に従わんと欲するか」と訊ねた。王公たちは驚いて答える者もなかったが、しばらくして南平公[[長孫嵩]]が「王に従わん」と答えた。群臣たちは事情に不審を抱き、まず肥如侯[[賀泥|賀護]]が安陽城の北で起兵し、旧賀蘭部の人々がそのもとに集まった。そのほかの旧部族も族人を集めはじめた。
 
ときに拓跋紹の兄の[[明元帝|拓跋嗣]]は宮廷の外にいたが、異変を聞くと山中に潜伏し、北新侯[[安同]]と連絡を取って、人々を集めた。拓跋嗣が[[大同市|平城]]の西に進軍すると、衛士が拓跋紹を捕らえて送ってきた。拓跋紹と母の賀夫人は死を賜り、内応した宦官や宮人たち十数人も殺害された。