「承平天慶の乱」の版間の差分

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将門は元主人の[[藤原忠平]]に良兼の暴状を訴え、同年12月、朝廷から良兼らの追捕の官符が発せられた。将門は兵を集めて本拠を豊田から要害のよい石井へ移した。良兼は内通者から情報を得て、石井の館に夜襲をしかけるが将門軍は奮闘し撃退される。この敗戦の後、良兼の勢力は衰え、天慶2年([[939年]])6月良兼は失意のうちに病没した。
 
承平8年([[938年]])2月、身の置き所のなくなった平貞盛は[[東山道]]をへて京へ上ろうと出立するが、朝廷に告訴されることを恐れた将門は100騎を率いてこれを追撃、[[信濃国]][[信濃川|千曲川]]で追いついて合戦となり、貞盛側の多くが討たれるも、貞盛は身ひとつで逃亡に成功。上洛した貞盛は将門の暴状を朝廷に訴え、将門への召喚状が出された。6月、貞盛は東国へ帰国すると[[常陸国司|常陸介]][[藤原維幾]]に召喚状を渡し、維幾は召喚状を将門に送るが、将門はこれに応じなかった。貞盛は[[陸奥国]]へ逃れようとするが、将門側に追いまわされ、以後、東国を流浪することを余儀なくされる。
 
=== さらなる争い ===