「京王電鉄」の版間の差分

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日本電気鉄道は[[1906年]](明治39年)[[8月18日]]に'''武蔵電気軌道株式会社'''と改称し、新たに立川村内と府中 - 国分寺間の路線を出願するとともに既に出願していた鉄道路線計画を変更し、蒲田 - 立川間の調布以北と府中 - 新宿間を合体させ残る蒲田 - 調布間を国領で分岐し蒲田に至る路線として分離した。この時の経路が現在の京王線の基となっている。
 
その後、[[1910年]](明治43年)[[4月12日]]に武蔵電気軌道が'''京王電気軌道株式会社'''と改称し、[[9月21日]]に[[資本金]]125万円で設立され、[[鬼怒川水力電気]]取締役の[[川田鷹]]が取締役会長に、初代専務取締役(社長)に鬼怒川水社長[[利光鶴松]]([[小田急電鉄]]や[[帝都電鉄]]の創業者)の親族である[[利光丈平]]がに就任した。しかし、まだ鉄道路線は有していないため、当初の営業は[[1911年]](明治44年)[[7月4日]]に関係官庁より許可が出た[[電力会社|電気供給]]事業のみ執り行っており、[[1912年]](明治45年)8月から調布町・[[多磨村]]・府中町・[[西府村]]に電気供給を行っていた。
 
そして、[[1913年]]([[大正]]2年)[[4月8日]]に、[[東急玉川線|玉川電鉄]]と[[東京電燈]]から買った電力を笹塚[[変電所]] (100[[キロ|k]][[ワット|W]]) で受けて、[[4月15日]]に[[笹塚駅]] - [[調布駅]]間の12.2キロの電車営業と、電車の補助機関として[[新宿駅]] - 笹塚駅間及び調布駅 - [[国分寺駅]]間の乗合自動車営業([[路線バス]]事業)を開始した。しかし、京王線の建設資金に窮し、[[森村財閥]]の融資系列に入り、[[富士瓦斯紡績]]の[[井上篤太郎]](第3代専務)、[[藤井諸照]](会長)が経営陣に参画することになる。その後は[[1914年]](大正3年)[[11月19日]]の京王線の[[京王線の新宿駅付近の廃駅#新町駅|新町駅]](現存せず) - 笹塚駅間の延伸を皮切りに、[[1915年]](大正4年)[[5月30日]]には[[京王線の新宿駅付近の廃駅#京王新宿駅|新宿追分駅]](新宿3丁目付近にある追分交差点にあった駅 現・京王新宿三丁目ビルの位置) - 新町駅間が、[[1916年]](大正5年)[[6月1日]]には調布駅 - 多摩川原駅(現・[[京王多摩川駅]])間が、[[10月31日]]には調布駅 - [[府中駅 (東京都)|府中駅]]間が延伸開業した。また、[[1923年]](大正12年)[[5月1日]]には新宿駅 - 府中駅間の全線複線化も行っている。このほか、[[1919年]](大正8年)[[4月]]には多摩川原駅前での[[造園]]事業も行った。
[[第二次世界大戦]]も終結し、京王線と井の頭線は、'''京王帝都電鉄株式会社'''の下で営業されることとなる。
 
元来、京王電気軌道も、帝都電鉄も[[鬼怒川水力電気]]の[[利光鶴松]]が企図した事業であったが、その後の沿革が異なる両線が同一会社となったのは、京王線がまだ[[路面電車]]当時の設備のままで脆弱であったこと、また戦前の京王電気軌道のもう一つの主力であった配電事業が失われたこと、東都乗合自動車(現・[[国際興業バス]])・藤沢自動車(現・[[神奈川中央交通]])・中野乗合自動車(現・[[関東バス]])などのバス会社や[[観光業|観光事業]]であった[[京王閣]]などの有力系列会社が傘下から離れていったことに起因する。
 
京王線は、京急線や小田急線とは違い、高速鉄道化が遅れ、車両や鉄道用地の規格が小さく、戦災による被災車両が発生しても、他線からの車両の融通や、新製車両の配備も行われなかった。また、東急本社も、車両、線路、設備の改良や新規の投資も行う余裕がなく、京王線は東急合併のメリットを享受できなかった。いわば、戦前の経営を支えた付帯事業を失い、戦災被害を受けたままの鉄道事業のみで自立しなければならない現状であった。そのため、京王線のみの分離では戦前の京王電気軌道よりも経営基盤が弱くなり、独立が危ぶまれていたのである。
なお、1960年頃には、数多くの路線を建設しようとしており、立川線([[富士見ヶ丘駅]] - [[西国立駅]])、三鷹線(富士見ヶ丘駅 - [[三鷹駅]])、両国線(新宿駅 - [[神楽坂駅]] - [[飯田橋駅]] - [[九段下駅]] - [[東京駅]] - [[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]] - [[浜町駅]] - [[両国駅]])の3路線(路線名称は、いずれも計画時の仮称)を計画したが、いずれも実現しなかった。
 
[[1980年代]]にはそれほど健全な財務内容ではなかったが、第6代社長に京王帝都電鉄総合職1期生の[[桑山健一]]が就任し、経営の引き締めにつとめ、[[失われた10年|平成不況]]の過程で同業他社が[[不動産]]価格下落・[[流通]]不振・旅行低迷などに見舞われるのを尻目に、[[財務]]体質は強固なものに変わっていった。桑山は、京王帝都電鉄設立以来、会社のたゆまぬ経営努力にも関わらず、常に財務状況が脆弱であったことを嘆き、財務体質の強化を志しての社長就任となった。桑山は、「リフレッシング京王」をスローガンに掲げ、京王グループ全体の経営改革と付加価値向上に努めた。後継社長には、財務のプロである[[住友信託銀行]]の[[西山廣一]]常務を招聘し、桑山の意を受けた西山は、在任中、経営改革を成し遂げ、現在、京王電鉄は、大手私鉄の中でも優良な経営状況を誇っていである。
 
==== 年表 ====