「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の版間の差分

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また、[[1862年]]4月には[[エコール・デ・ボザール]](官立美術学校)にも入学し、古典的なデッサン教育も並行して受けた<ref>[[#木村|木村 (2012: 151)]]。</ref>。ここでは、夜間のデッサンと[[解剖学]]の授業に出席していたが、油彩画の習作をクラスに持って行ったところ、教師シニョルから、赤い色の使い方について批判され、「もう1人のドラクロワになったりしないよう気を付けることだ!」と警告されたという<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 83)]]。</ref>。当時、豊かな色彩を用いるドラクロワは、デッサンを重視する[[新古典主義]]が支配するアカデミーから排撃されていた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 42)]]。</ref>。エコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験では、受験者12人中9番、1864年の彫刻とデッサンの試験では、106人中10番という成績を残している<ref>[[#賀川|賀川 (2010: 21)]]。</ref>。
 
[[1863年]]には、バジール、モネ、シスレーとともに[[シャイイ=アン=ビエール]]に行き、[[フォンテーヌブロー]]の森で写生している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 13)]]。</ref><ref group="注釈">彼らがフォンデーヌブローの森で写生したのは、文献によっては[[1862年]]としており、はっきりしない。[[#島田・セーヌ|島田 (2011: 31)]]。</ref>。ルノワールが戸外で制作していると、義足の男が現れ、「デッサンは悪くないが、一体どうしてこんなに黒く塗りつぶしてしまうんだね」と評したという。この男は、[[バルビゾン派]]の画家{{仮リンク|[[ナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャ|en|Narcisse Virgilio Díaz}}]]であり、その後、ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために画材代の支援や助言をするようになり、ルノワールもディアズを尊敬するようになった<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 101)]]、[[#賀川|賀川 (2010: 31-32)]]。</ref>。この年、グレールは、健康上・財政上の理由で画塾を閉鎖することとなった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 14)]]。</ref>。
 
=== サロンへの挑戦(1863年-1870年) ===
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[[1882年]]1月には、友人から紹介状をもらって[[パレルモ]]で作曲家[[リヒャルト・ワーグナー]]に会い、短時間でその肖像画を描いた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 329-30)]]。</ref>。その後、パリに戻る予定を変更し、[[マルセイユ]]郊外の[[エスタック]]に[[ポール・セザンヌ]]を訪ね、共に制作した。2月初め、エスタックで風邪を引いて肺炎を起こし、療養した。そのような折、カイユボットとデュラン=リュエルから、第7回印象派展への参加を促す手紙が届いた。ルノワールは、デュラン=リュエルに次のように回答している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 204-05)]]。</ref>。
{{Quotation|あなたがお持ちの私の絵はあなたのものです。それらの絵をあなたが展示するのを妨げることはできません。しかし、展示するのは私ではありません。<br/>……もちろん私はどんなことがあっても、ピサロと[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]の結託には関与しませんし、一時といえども独立派(アンデパンダン)と呼ばれるグループに含まれることは受け入れられません。}}
'''第7回印象派展'''は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介して1882年3月に開催にこぎつけたが、出品作品の大半がデュラン=リュエルの所蔵品であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 201-02, 207)]]。</ref>。ルノワールの出品作は、デュラン=リュエルが選定した25点で、うち9点がヴェネツィアやアルジェ、セーヌ川の風景画、5点が静物画、その他は風俗画である。批評家{{仮リンク|[[フィリップ・ビュルティ|en|Philippe Burty}}]]は、ヴェネツィアとアルジェの太陽の光にあふれた風景画、そして『扇を持つ女性』を絶賛した。他方、大作『[[舟遊びをする人々の昼食]]』は、この展覧会ではそれほどの評価を得られなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 208-10)]]。</ref>。『舟遊びをする人々の昼食』では、テーブル上の静物や、遠景のセーヌ川の描写は印象主義的であるが、人物の明確な輪郭線や、左下から右上に向かう構図は、この頃から古典主義への関心が強まったことを示している<ref>[[#島田・ルノワール|島田 (2009b: 48)]]。</ref>。
 
'''1882年のサロン'''には『青いリボンをつけたイヴォンヌ・グランレル』、'''1883年のサロン'''には『クラピソン夫人の肖像』を入選させた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 219)]]。</ref>。1883年4月には、デュラン=リュエルが{{仮リンク|マドレーヌ大通り|en|Boulevard de la Madeleine}}に新しく開いた画廊で、ルノワールの個展が開かれた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009a: 223)]]。</ref>。