「ヤーセル・アラファート」の版間の差分

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翌[[1970年]]、PLOによる[[テロリズム|テロ]]がヨルダンを巻き込んで国際的に行われるようになると、このことがパレスチナ難民の不安定化によるヨルダン情勢の悪化を恐れる[[フセイン1世]]国王の逆鱗に触れ、フセイン国王は[[9月14日]]に戒厳令を敷いて国王親衛隊の[[ベドウィン]](アラブ遊牧民)部隊を投入、PLOを攻撃した([[ヨルダン内戦|ブラック・セプテンバー事件]])。
 
アラファートはこの事件によってヨルダンから追放されるものの、今度は[[レバノン]]に移って[[1970年代]]を通じてイスラエルに対する武装闘争を続け、この時期の[[第四次中東戦争]]を契機とするアラブ諸国とイスラム諸国の結束の機運に乗じて、[[1974年]]の[[モロッコ]]の[[ラバト]]で開かれた[[アラブ連盟]]首脳会議で満場一致でPLOは「パレスチナ唯一の代表」となり、同年には[[パキスタン]]の[[ラホール]]の[[イスラム諸国会議機構]]首脳会議でアラファートは演説して全会一致の支持を受け、[[イスラム教]]諸国39ヶ国首脳と[[バードシャーヒー・モスク]]での金曜日の集団礼拝に参加した。さらにPLOは[[国際連合総会オブザーバー]]資格を手に入れて[[国連本部]]でも演説を行った。当時は[[ウガンダ]]の[[イディ・アミン]]とも親しくし、結婚式にも立ち会っていた<ref>[http://www.guardian.co.uk/uk/2007/aug/04/ukcrime.sandralaville Big Daddy's boy: Idi Amin's son jailed in Britain over Somali gang murder]</ref><ref>[http://www.guardian.co.uk/uk/2007/aug/04/ukcrime.sandralaville Biographical Focus: Idi Amin]</ref>。しかし、[[1983年]]に[[レバノン内戦]]での[[シリア]]大統領[[ハーフィズ・アル=アサド]]との不和から拠点であった[[ダマスカス]](シリア)と[[トリポリ (レバノン)]]を追放され<ref>Aburish, Said K. (1998). From Defender to Dictator. Bloomsbury Publishing. pp. 150–175. ISBN 978-1-58234-049-4.</ref>、[[ハビーブ・ブルギーバ]]の招きで[[チュニジア]]の[[チュニス]]にPLOの本拠地を移す。[[1985年]]にヨルダンと和解して[[アンマン]]でヨルダンとパレスチナによる[[連邦制]]で合意する。[[1988年]]7月にヨルダン国王[[フセイン1世]]が[[アブドゥッラー1世]]の時代から主張し続けたパレスチナの領有権を破棄すると、[[1988年]]11月にアラファートは[[パレスチナ国|パレスチナ国家]]を建国するとして[[パレスチナの独立宣言]]を発表し、初代大統領に就任して[[イスラム世界]]<ref>See the following:
* {{cite web|author=Organisation of the Islamic Conference|title=Resolutions on Political, Legal and Information Affairs|work=The Eighteenth Islamic Conference of Foreign Ministers (Session of Islamic Fraternity and Solidarity)|url=http://www.oic-oci.org/english/conf/fm/18/18%20icfm-political-en.htm|date=13–16 March 1989|accessdate=2015-03-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150924055432/http://www.oic-oci.org/english/conf/fm/18/18%20icfm-political-en.htm|archivedate=2015年9月24日|deadurldate=2017年9月}}
* Organisation of the Islamic Conference (13–16 March 1989). "Final Communique". The Eighteenth Islamic Conference of Foreign Ministers (Session of Islamic Fraternity and Solidarity).
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その後、イスラエルとの対話路線を謳う穏健派の指導者として復活を図り、1993年和平([[オスロ合意]])を成立させてイスラエルの[[イツハク・ラビン]]首相と会見した。翌[[1994年]]、和平協定に基づいて[[パレスチナ自治政府]]が設立されるとパレスチナに戻り、[[1996年]]1月の選挙でその長官(初代大統領)に選出された。1994年、この政治決断に対して[[ノーベル平和賞]]が贈られた。
 
しかし、その後イスラエルとの和平プロセスは[[イツハク・ラビン]]の暗殺がきっかけで幾度となく危機を迎え、[[2000年]][[9月28日]]にイスラエルの[[アリエル・シャロン]](後の首相)が[[エルサレム]]の神殿の丘にある[[イスラム教]]の聖地に踏みこんだ事件をきっかけに[[ハマース]]ら非PLO系の組織を主流とする[[インティファーダ]]運動が起こり、イスラエルとパレスチナの対立は決定的となった。パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区や西岸の状況が置かれている状況は悪化した。そのためイスラエルとの戦闘を呼びかけるイスラム主義勢力がパレスチナ人の支持を強め、交渉で解決しようとする穏健派アラファトの人気は低下した。欧米諸国はアラファトではなく新しいリーダーによるパレスチナの統治を模索し、2002年末に和平ロードマップを作成したが、結局アラファトの抵抗によって屯坐した。
この「改革」の失敗により、イスラエルのシャロン首相は「アラファトがいる限り和平交渉はできない」として、イスラエル政府からの信頼を失っていった。アメリカ政府も、アラファトを排除しなければパレスチナは統一できないと考えるようになった。[[ハマース]]やダハランもアラファトの辞任を要求するようになった。イスラエルはアラファートをテロ蔓延の原因とみなして敵視を強め、[[ヨルダン川西岸地区]]の[[ラマッラー]](ラマラ)にあるアラファートの議長府(大統領府)は[[2001年]]より長らくイスラエル軍による包囲・軟禁状態に置かれた。