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{{Otheruses|紀州藩士の松平忠勝|[[三河国|三河]][[伊保城]]主で[[松平忠次 (大学頭)|松平忠次]]の子|松平忠勝 (大学頭)}}
'''松平 忠勝'''(まつだいら ただかつ、生年不詳? - [[寛文]]4年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]([[1664年]][[3月26日]]))は、[[江戸時代]]の[[徳川頼宣]]の家臣で、後に[[家格]]寄合の[[紀州藩]]士。[[久松氏|久松松平家]]の[[松平定勝]]の養子で、家紋は葵と九曜紋を使用する。実父は[[改易]]となった[[桜井松平家]]の[[浜松藩]]主・[[松平忠頼]]。母は[[織田長益]]の娘。子息は男子2人が『[[南紀徳川史]]・第5冊』で確認できる。妻は[[大崎玄蕃]]の娘とされる。[[通称]]は新右衛門尉、長七郎。[[江戸幕府]]第14代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家茂]]の生母[[実成院 (徳川家茂生母)|実成院]]の実家である紀州藩高家の[[松平六郎右衛門]]家の先祖である。
 
ちなみに[[時代劇]]「[[長七郎江戸日記]]」の主人公である[[松平長七郎]]と同姓同通称で、人物設定に偶然忠勝と関係が深い部分([[高崎城]]や伊勢国、徳川頼宣と関係があるという部分)があるが、同作品は創作であり、本項目の松平長七郎忠勝と同作品は全く関係がない。
 
 
== 生涯 ==
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後に病気により暇をもらい、[[山城国]]嵯峨において、従兄弟で[[丹波国|丹波]][[丹波亀山藩|亀山藩]]などを勤めた[[松平忠晴]]から毎年500石の援助を貰いながら閑居し、寛文4年(1664年)に死去。
 
 
== 参考文献 ==
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[[Category:桜井松平氏|たたかつ]]
[[Category:紀州藩士]]
[[Category:17世紀年不明]]
[[Category:1664年没]]