「慈恩寺 (寒河江市)」の版間の差分

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|別称 =
|札所等 = 東北三十六不動尊霊場 1番
|文化財 = 境内(国の史跡)<br>木造弥勒菩薩及び諸尊像([[重要文化財]])など
 
{{mapplot|140.250891|38.410256|慈恩寺}}
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== 歴史 ==
=== 奈良時代(創建) ===
伝承によれば、神亀元年(724年)行基がこの地を選び、[[天平]]18年([[746年]])[[聖武天皇]]の勅により婆羅門僧正[[菩提僊那]]が寺院を建立したのに始まるとされる。山号を寒江山とし大慈恩律寺と称した。
 
しかし、[[奈良時代]]盛時の[[勅願寺]]であれば平地に七堂[[伽藍]]を建築するべきところを、慈恩寺は山中に伽藍を構築しており山岳寺院の傾向を持つ。麻木脩平<ref group="注釈">元[[群馬県立女子大学]]文学部教授。元[[山形大学]]助教授。[[東京教育大学]]芸術学修士。</ref>によれば、慈恩寺開創の時期は平安初期の[[9世紀]]と考えられるという。その根拠として第一に、全国的に弥勒菩薩を本尊とするか本尊に準ずる扱いを受けている寺院はほとんどが平安初期に創立されたものであること。第二に[[永仁]]の大火([[1296年]]、後述)で焼失した本尊は平安初期に盛行した檀像風の像であったと考えられること。第三に慈恩寺が、寺号や弥勒菩薩との関わりが深い法相教学の寺院として創建されたと考えると、この寺を開いた[[僧|僧侶]]は[[南都]](奈良)仏教系の人であると考えられ、南都系僧侶が[[出羽国]]にまで教線を拡大する情熱と力を失っていない時期は平安初期までで、それ以後とは考えられない。法相宗の[[徳一]]が[[会津]]で活動したのは9世紀前半であり、山形県内にも徳一開基を伝える寺院があり、南都の法相宗が県内に進出したのはほぼ確実なことを挙げている。さらに、平安時代に出羽国に設置された[[定額寺]]の中に慈恩寺の名が見えないことから、慈恩寺は当初、定額寺に列せられるような規模の大きな寺ではなく、小規模な法相系の[[私寺]]だったのではないかと論じた<ref>『寒河江市史 上巻』 p.268-271 </ref>。
 
本山慈恩寺管長布施慶典の『法相宗について』によれば、現在でも本堂で行われる行事、修正会・一切経会などは法相宗の様式を伝えているという。
 
=== 平安時代(再興) ===
[[天仁]]元年([[1108年]])、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の勅宣により[[藤原基衡]]が阿弥陀堂(常行堂)・釈迦堂(一切経堂)・丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺<ref group="注釈">1丈6尺(4.85m)は釈迦の身長とされ仏像の標準的な大きさとされる。なお、古代中国では1丈=1.8m、日本では約3mである。[[大仏]]参照。</ref>の釈迦像を丈六堂に安置した(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。このとき山号を雷雲山と改め、鎮守として[[白山権現]]を加えた(『慈恩寺縁起』)。一切経の納入や丈六釈迦如来像の建立など[[藤原清衡]]の建立した天台宗[[毛越寺]]との類似点は多い。既に[[寛徳]]2年([[1045年]])の時点で[[寒河江荘]]は[[摂家|摂関家]]領として成立していたことから、天仁の再興時の[[荘園]]主で当時[[摂政]]だった[[藤原忠実]]が信仰していた天台宗の影響も考えられる<ref>『寒河江市史 上巻』 p.251-252 </ref>。[[仁平]]年間([[1151年]] - [[1153年]])に[[興福寺]]の願西[[上人]]を本願者、[[平忠盛]]を奉行として再興した(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。[[南都]]興福寺は藤原摂関家の[[氏寺]]であり[[法相宗]]の総本山であった。寒河江荘の荘園主である[[藤原氏]]の庇護と、[[公卿]]への昇進を目前に控えた忠盛の財力をうかがわせる。また、慈恩寺再建にあたっての藤原基衡から平忠盛への奉行の転換については、[[久安]]5年([[1149年]]) - 仁平3年(1153年)にかけて[[奥州藤原氏]]と藤原摂関家が年貢増徴をめぐって争ったことが遠因ではないかとの指摘もある<ref>『寒河江市史 上巻』 p.256 </ref>。
 
堀裕<ref group="注釈">[[東北大学]]大学院准教授。[[京都大学]]大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。文学博士。</ref>は「興福寺」願西上人は寒河江荘で活躍した法華経を信奉する修行僧ではなかったかと論じている。堀によれば、12世紀の慈恩寺の什物や建築物には天台宗の影響が色濃く見え、後の天台宗と真言宗の争いにより寺伝から天台宗が主流であった痕跡を消すために、法相宗の総本山である「興福寺」願西上人を作り出したのではないか、とする<ref>『みちのく慈恩寺の歴史』 p.199-200 </ref>。
 
鳥羽天皇が崩御した[[保元]]元年([[1156年]])、[[保元の乱]]が起こり実権を握った[[後白河天皇]]の勅宣により[[熊野権現|今熊野十二所権現]]を勧進し社殿を建立する。保元2年([[1157年]])火災で本堂が焼失するも、[[永暦]]元年([[1160年]])に再建された。この前年([[1159年]])[[平治の乱]]が起こっており、後白河院と二条天皇の対立は膠着状態であったが、やがて二条天皇及び関白[[藤原忠通]]が実権を握っていく。しかし、[[長寛]]2年([[1164年]])に忠通が、翌[[1165年]]に二条天皇が立て続けに死去すると、幼少の[[六条天皇]]を忠通の子[[藤原基実]]が摂政として補佐するものの[[永万]]2年([[1166年]])に急死してしまう。基実に伝領されていた[[寒河江荘]]は[[藤原基通]]が成人するまでの間、[[平盛子]]が一時的に預かるという形で、盛子の父[[平清盛]]の影響下に入った。平家との協調路線を模索していた後白河上皇もこれを黙認し、後白河の院政が開始する。 しかし[[安元]]2年([[1176年]])後白河の寵愛を受けた[[平滋子]]が死去すると後白河と清盛の間にも亀裂が入り、[[鹿ケ谷の陰謀]]・[[平重盛]]の死去で関係は修復不可能になっていく。
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やがて[[治承]]3年([[1179年]])平盛子が24歳で死去すると、盛子が一時的に相続した摂関家領の相続問題が発生する。盛子が准母となっていた[[高倉天皇]]への伝領を清盛が画策したのに対して、摂政[[氏長者]][[松殿基房]]が伝領を求めて後白河へ訴えたのである。後白河はこれに介入して自己の管理下に置いてしまう。これが引き金となり[[治承三年の政変]]が起こり後白河は院政を停止され、藤原基通が関白・氏長者となり、寒河江荘も摂関家領に戻った。関白・藤原基通は平家の都落ちに際して京都に残り、後白河院の側近となって度々関白を務め、後白河の死後も関白・摂政を歴任した。
 
[[文治]]元年([[1185年]])後白河法皇の[[院宣]]と[[源頼朝]]の[[下文]]により、瑞宝山の山号を賜った。この時、[[高野山]]の弘俊[[阿闍梨]]により[[真言宗]]がもたらされ、翌文治2年([[1186年]])法皇の院宣により[[熊野権現]]社殿が修造された。白山権現は鎮守から外れることになり、天台宗も中心的役割を失っていく。後白河法皇は生涯34度におよび[[熊野三山|熊野]]を詣でており、その信仰心がこの地方まで影響していたことを示している。弘俊は[[修験]]を導入し、[[葉山 (村山市)|葉山]]を奥の院として葉山修験の中心地となった。
 
=== 鎌倉時代(中興と大江氏) ===
[[Image:JIONJI Tmple Amidado.jpg|thumb|220px|阿弥陀堂]]
[[Image:JIONJI Temple Syakado.jpg|thumb|220px|釈迦堂]]
[[文治]]5年([[1189年]])[[奥州藤原氏]]が滅び、寒河江荘の[[地頭]]に[[大江広元]]が[[補任]]されると、慈恩寺も次第に[[寒河江氏|大江氏(寒河江氏)]]の庇護を受けるようになる。広元の長男[[大江親広]]は[[建久]]3年([[1192年]])寒河江荘を譲り受けるが、[[承久]]3年([[1221年]])[[承久の乱]]で失脚し寒河江荘に隠棲する。ただし、親広の子の[[大江広時]]、広時の子の[[大江政広]]は[[鎌倉幕府]]の要職にあり鎌倉に定住していたため、政広の子の[[大江元顕]]が初めて寒河江に入部したと言われている。『永正本大江系図』によれば、広元の末子・尊俊が別当坊を継いだことが記録され、『最上院系図』によると親広の孫・成広が別当二十二代を相続して幸繁を称し、三十代幸海・三十五代幸道も大江氏から入った<ref>『寒河江市史 上巻』 p.307 </ref>。このことは端的に、慈恩寺と大江氏が密接な関係を結んでいたことを示している。[[安貞]]2年([[1228年]])勧進僧恵玄房経円が[[白山権現|白山神社]]御宝前に木造の[http://imagedb.narahaku.go.jp/archive_search/search/viewer.php?requestArtCd=0000004059 聖観音懸仏]を納める([[奈良国立博物館]]所蔵)。[[正応]]3年([[1290年]])良源阿闍梨により求聞持堂が築造され、虚空菩薩像を安置し聞持院と称した。ここでは虚空蔵求聞持法という密教の修行を行った。ここにはこれ以前薬師堂が建てられており、薬師三尊及び十二神将を安置していたという<ref>『みちのく慈恩寺の歴史』 p.63-64 </ref>。[[永仁]]4年([[1296年]])に火災で本堂及び本尊弥勒菩薩以下の諸仏が焼亡するが[[正安]]元年([[1299年]])再建が開始され8年後に完成している。
 
[[正慶]]2年([[1333年]])鎌倉幕府が[[新田義貞]]によって攻め込まれると、中央で鎌倉方に与した[[大江貞広]]なども[[北条高時]]に殉じた。貞広の弟懐顕や子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてくることになるが(『大行院大江系図』)、このことが契機となり、寒河江氏は[[南朝 (日本)|南朝]]方陸奥守[[北畠顕家]]の配下に付いた。元顕の子[[大江元政|元政]]は[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])に北畠軍による[[足利尊氏]]の攻撃に参加し、戦功を挙げている(『金仲山眼明阿弥陀尊略縁起』)。しかし、尊氏が軍を立て直し京を奪回すると[[延元]]3年([[1338年]])には北畠顕家が[[和泉国]]堺石津で戦死、同年新田義貞が戦死、翌年[[後醍醐天皇]]が没し、南朝は苦戦を強いられるようになる。[[東北地方]]においては、北畠顕家の弟[[北畠顕信]]が下向し寒河江氏はその元で寒河江荘北方を奪還するなど慈恩寺近辺においても戦乱の様相を呈する。[[文和]]3年/正平9年([[1354年]])[[斯波家兼]]が[[北朝 (日本)|北朝]]の[[奥州管領]]として下向すると[[陸奥国]]は北朝の勢力下となり、[[延文]]元年/[[正平 (日本)|正平]]11年([[1356年]])子の[[斯波兼頼]]が[[出羽国]]に進出し、延文4年/正平14年([[1359年]])大江元政が打ち取られたという。
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=== 戦国時代〜江戸時代 ===
[[Image:Jionji Temple 2007.jpg|thumb|220px|三重塔]]
[[応仁]]元年([[1467年]])[[応仁の乱]]が始まると室町幕府の衰微が明らかとなり、東北地方においても国人領主の台頭が顕著になる。[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])伊達氏が寒河江城を攻めるが、寒河江氏一族の結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓紙を納めている(『幹縁疏』)。この時は冬の厳しさにより干戈を交えず撤退した伊達氏だったが、文明12年([[1480年]])再び侵攻すると菖蒲沼{{ウィキ座標|38|23|19.4|N|140|16|07.4|E|region:JP||name=菖蒲沼}}(現:寒河江市大字寒河江字菖蒲沼)付近で激闘となり、寒河江氏は伊達側大将桑折播磨守を打ち取っている。同年桑折播磨守の菩提を弔う時宗松蔵寺が開かれ、後に最上院滅罪の寺となった<ref>慈恩寺の子院であり相応の負担をしていたが、天童佛向寺十六代法阿により建立された時宗一向派寺院である。『寒河江市史 上巻』p.905</ref>。[[永正]]元年([[1504年]])山形城主[[最上義定]]が寒河江領に攻め入り、兵火により一山仏閣、坊舎がことごとく焼亡してしまう。これと同時に宝物も散失してしまったが、本堂の諸仏は難を逃れ1躯も焼失しなかった(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。仮本堂が築造されるが、寒河江氏において[[白岩氏]]・[[溝延氏]]・[[左沢氏]]などの[[庶家|庶流]]が独立傾向を強めたことや、たびたび伊達氏・最上氏の抗争に巻き込まれたことから往時の本堂を再建する余力はなく、再建は[[江戸時代]]を待つことになる。[[天文 (元号)|天文]]年間([[1532年]] - [[1555年]])に葉山との関係を断ち、これ以降は三合山([[十部一峠]])を奥の院とした。このことが契機となり葉山修験は次第に衰退し、江戸時代には[[出羽三山]]から葉山が外れることになる。[[天正]]11年([[1583年]])最上氏は庄内[[武藤氏]]([[大宝寺氏]])の攻略を企図し、[[大宝寺義氏|武藤義氏]]は家臣前森氏に謀反を起こされてしまう。[[寒河江高基]]は義氏救援のために[[大越 (山形県の峠)|六十里越]]を庄内に向けて進軍したが、途中で義氏自害の報に接し、引き返している。この時高基は大綱[[注連寺]]より三千仏の画像三幅対を持ち帰り、慈恩寺弥勒堂に寄進した。天正12年([[1584年]])最上氏の攻撃によりに高基が自害し寒河江氏が滅亡すると、慈恩寺は最上氏の庇護を受けるようになり、所領は黒印地として安堵された。<!--寒河江大江一族滅亡に際し、[[天童頼久]]の娘を母とする良光は[[蘆名氏]]を頼って[[会津]]へ逃れるが、最上氏へ下った旧家臣らの嘆願により義光は大江氏宗廟の阿弥陀堂を再建し、その仏餉采地として118石9斗余を寄進して良光を別当として招いた。良光は[[天海]]の剃髪を受けて仏門に入り安中坊(あんちゅうぼう)を称した(『安中坊系譜』)。-->
{{familytree/start|style=font-size:70%;}}
{{familytree|border=1 | AAA |-| BBB |v| CCC |-| DDD | AAA=[[寒河江元時]] | BBB=[[寒河江元高|元高]] | CCC=高重 | DDD=広重}}
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明治元年([[1868年]])に[[神仏分離]]令が出され、明治4年([[1871年]])には寺社領の返上を求める上知令が出された。また明治5年([[1872年]])修験禁止令が出され、慈恩寺修験の諸行事は行われなくなり一山は困窮の極みに達する。困窮した坊は帰農し、[[神仏習合]]の典型であった修験は姿を消すことになった。しかし、明治14年([[1881年]])「行者会」を結成し、年1回当番宅へ集まり[[山伏]]の服装をしてお経を唱え山伏料理を出して修験の遺風を今日に伝えている。
明治43年([[1910年]])法令改正により、華蔵院は[[真言宗智山派|智山派]]総本山[[智積院]]の本寺、宝蔵院も智積院の末寺、最上院は比叡山[[延暦寺]]の末寺となる。同年[[乃木希典]][[大将]]が拝観し、招魂碑を揮毫した。三重塔脇に石碑が残る。昭和27年([[1952年]])慈恩寺は天台真言両宗慈恩寺派として独立することになり、昭和47年([[1972年]])[[慈恩宗]]大本山慈恩寺として独立した。各院坊の住職は、真言方は宝蔵院・華蔵院で修行し位階を取得、天台方は最上院で修行し山寺立石寺で伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受けて僧侶としての位階を取得する。[[昭和]]35年([[1960年]])明治5年以来88年間途絶えていた柴燈護摩会(さいとうごまえ)が復活した。以前の作法を元にしながら、宝寿院流にのっとった方法で行っている<ref>『図録 慈恩寺修験資料』p.68-69 </ref>。
 
昭和54年([[1979年]])の[[文化庁]]文化財主任調査官[[鷲塚泰光]]<ref group="注釈">1938年生-2010年没。慶應義塾大学 哲学研究科 哲学専攻修了。美術史家。東京国立博物館研究員、同次長を経て奈良国立博物館館長(2000年4月から2005年3月)。</ref>の来訪を端緒として悉皆調査が行われ、[[享保]]10年([[1725年]])の時点で既に失われたと思われていた平安時代の仏像について、発見・文化財指定に至った。平成4年([[1992年]])山形県で行われた「べにばな[[国民体育大会|国体]]」に合わせて秘仏開帳が行われた。平成22年([[2010年]])慈恩寺国史跡指定推進委員会を設置し慈恩寺文化財の基礎調査を開始する。平成23年([[2011年]]) - 平成25年([[2013年]])にかけて慈恩寺調査検討委員会を設置し、学術的裏付け調査・史跡範囲の確定・総合報告書作成を行った。また同時に史跡範囲の地図作成・地権者の同意を得た<ref>{{cite web |url=http://www.city.sagae.yamagata.jp/kurashi/sports/jionji/h24times-backnumber.files/soukangou.pdf |format=PDF |title=慈恩寺Times 創刊号|date=2012-12-20 |publisher=慈恩寺国史跡指定推進委員会 |accessdate=2015-12-19 }}</ref>。平成26年([[2014年]])3月「未来に伝える山形の宝」(10選)のひとつに選定された<ref>{{cite news |url=http://yamagata-np.jp/news/201403/21/kj_2014032100442.php |title=「未来に伝える山形の宝」、10団体に登録証交付 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140413125146/http://yamagata-np.jp/news/201403/21/kj_2014032100442.php |archivedate=2014年4月13日 |accessdate=2015-12-19 |date=2014-03-21 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。平成26年(2014年)1月29日寒河江市教育委員会から[[文化庁]]に対し国史跡指定にかかる意見具申書を提出し<ref>{{cite web |title=慈恩寺Times 第八号 |date=2014-2-20 |url=http://www.city.sagae.yamagata.jp/kurashi/sports/jionji/h25times-backnumber.files/dai8gou.pdf |format=PDF |publisher=慈恩寺国史跡指定推進委員会 |accessdate=2015-12-19 }}</ref>、同年10月6日付で「慈恩寺旧境内」の名称で国の史跡に指定された<ref>平成26年10月6日付文部科学省告示第137号</ref>。2015年(平成27年)から史跡慈恩寺旧境内保存活用計画策定委員会が設置され2017年(平成29年)に計画書が発行された<ref>「慈恩寺Times第24号」平成29年4月20日発行</ref>。
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== 院坊 ==
[[Image:INBOU_Place_1870.jpg|thumb|220px|明治3年の一山配置<ref>『院坊の文化財 図録』p.2-3</ref>]]
慈恩寺は3ヵ院48坊からなる一山寺院を形成し、鎮護国家、除災招福を祈願する寺院であった。一山を代表する支配職は、真言方は宝蔵院・華蔵院、天台方は最上院の3ヵ院で、所属の院坊をまとめ、幕府など大檀那への年礼を主とした<ref>『院坊の文化財 図録』p.6 </ref>。現在は3ヵ院17坊が一山を支える。
 
=== 3ヵ院 ===
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: 不動明王立像・地蔵菩薩立像・補任状などを保有。
* 東林坊 天台宗 最上院 修験  7.2石 元坊
: 元葉山に居住し「聖坊」と名乗ったという医師の家柄<ref>『院坊の文化財 図録』p.34 </ref>。不動明王坐像・倶利伽羅龍王・地蔵菩薩坐像・弁財天像・中世文書などを保有。
* 大乗坊 天台宗 最上院 修験  2.6石 元坊
: 元葉山に居住。不動明王立像・阿弥陀如来立像・毘沙門天像・聖徳太子像・弁財天像・役行者像などを保有。
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創建当時の姿を知るには今後の研究を待たねばならないが、天仁の再興以後の伽藍については文献等により垣間見ることができる。天仁の再興では釈迦堂、阿弥陀堂、丈六堂が築造され、続いて仁平の再建では妙楽院弥陀堂、鐘楼、講堂、宝蔵、二王門、中門、廻廊、温室などが築造されたという。これらは永正の兵乱(1504年)を経て全て焼失してしまっている。現在の伽藍は本堂を中心として東から阿弥陀堂、薬師堂、本堂、天台大師堂、釈迦堂の順番に並ぶ。
 
=== かつての伽藍 ===
<!--[[File:Syouzenji YAMAGATA Japan2014.jpg|thumb|220px|寒河江市正覚寺に移築された禅定院阿弥陀堂]]移築された阿弥陀堂ではなく本堂の画像のためコメントアウト-->
瑞宝山慈恩寺堂社之目録(是古来目録也)を元に1504年以前の伽藍を記載する。
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: 中院(または東院、上の寺:現在の本堂より500mほど東)に築造されていたが建立者・時期は不明。薬師三尊、十二神将を安置する。正応3年(1290年)良源阿闍梨により聞持院と改められ、1504年の兵火は免れたと思われるが16世紀中葉以降に廃れ<ref>[http://sitereports.nabunken.go.jp/6415 『上の寺遺跡第1・2次発掘調査報告書』]p.37</ref>、安置されていた仏像などは本堂東の薬師堂に移された<ref>『みちのく慈恩寺の歴史』p.63-64</ref>。
* 禅定院{{ウィキ座標|38|24|39.9|N|140|14|46.4|E|region:JP||name=禅定院}}
: 西院と呼ばれ現在の本堂より250mほど西に築造されていたもので、頼覚上人によって建立された。本尊の木造阿弥陀如来坐像(現在は慈光明院(山形市)の本尊)の墨書名が寛元5年([[1247年]])であるから13世紀の半ばには建立されていたとみられる<ref>『寒河江市史 上巻』 p.427-428 </ref>。戒堂三間、僧堂三間、庫院三間、不動堂、経堂三間からなっていたという。享保12年(1727年)の時点で阿弥陀堂のみが残っており、現在は浄土宗不動山[[正覚寺 (寒河江市)]]の阿弥陀堂として移築されている。
 
=== 現在の伽藍 ===
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* (*)[http://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1044 木造騎獅文殊菩薩及脇侍像(4躯)・木造騎象普賢菩薩及十羅刹女像(5躯)]
: 本堂宮殿内に安置。文殊像の脇侍は[[優填王]]、最勝老人、仏陀波利三蔵の3躯。作風等から十二世紀の作とみられる。昭和62年6月6日指定。
* [http://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1048 木造薬師如来及両脇侍像](3躯) 
: 薬師堂の本尊。[[延慶 (日本)|延慶]]3年([[1310年]])、院保の作。平成7年6月15日指定。常設展示。
* '''(2018年度指定見込み)'''木造聖徳太子立像
: 少年の姿の聖徳太子像で、像内に納められていた血書経典の奥書より正和3年([[1314年]])の製作であることが知られている。この時代の彫刻の中で、製作年代が判り、かつできばえが優れた作例である<ref> 「解説」『文化審議会答申~国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について~』文化庁、2018年3月9日</ref>。胎内に納められていたものは、「版本法華経」1巻、「写経法華経」8巻、「浄土説相図摺仏」、「月山堂法印」、「灯心」1束。妙法蓮華経第二巻の巻末に『大日本肥前国小城群[[円通寺 (小城市)|三間寺]]僧旨渕<ref>当時50歳を過ぎている。はじめ三間寺で天台教学を学び、師宏弁に従って臨済禅に転じた。血書経により血液型はA型。「寒河江市史 上巻」pp.435</ref>、今者寄住洛陽城裏西禅寺<ref>[[若訥宏弁]]の弟子[[石菴旨明]]の開山、[[小串範秀]]の開基「羽州瑞宝山慈恩寺」小論、伊藤清郎</ref>、(後略)』とあり願主が判明している。
* [http://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1047 木造十二神将立像] 8躯 附:木造十二神将立像4躯(辰・午・未・申神)
: 薬師堂内に安置。8躯は鎌倉時代、附(つけたり)の4躯は江戸時代の補作。平成2年6月29日指定。常設展示。
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* [[林家舞楽]](慈恩寺舞楽)
: 五月の一切経会で八番の舞を披露する。燕歩(えんぶ)、三台(さんだい)、散手(さんじゅ)、太平楽(たいへいらく)、安摩(あま)、二ノ舞(にのまい)、陵王(りょうおう)、納蘇利(なそり)。
: 林家舞楽は[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]])林越前政照が[[円仁]](慈覚大師)に伴って[[出羽国|羽州]]に下り、[[立石寺|山寺]]日枝神社の前で[[舞|舞楽]]を奉奏したのが始まりと伝わる。[[大永]]元年([[1521年]])山寺が[[天童頼長]]の戦火で焼失した際に慈恩寺に移り、江戸時代には最上院配下として20石9斗余の朱印地を得ていた。[[永正]]11年([[1514年]])から慈恩寺に残る『舞童帳(ぶどうちょう)』により、このころには既に慈恩寺で奉奏していたことがわかる<ref>『寒河江市史 慈恩寺中世史料(解読版)』p.24-34</ref><ref>『みちのく慈恩寺の歴史』 p.62 </ref>。江戸時代に八鍬村(現寒河江市大字八鍬)から[[河北町]]へ移ったという。
 
=== 山形県指定有形文化財 ===
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=== 平成30年 ===
9月10日から10月14日まで「慈恩寺の宗教と仏像展」が開催される。拝観料一般800円、団体(15名以上)600円、中学生以下無料。公開予定の仏像は以下の通り<ref>[http://www.city.sagae.yamagata.jp/kanko/event/butuzo2018.html 寒河江市ホームページ]『慈恩寺の宗教と仏像展』パンフレット</ref>。
* 木造聖徳太子立像(鎌倉時代)  -  平成30年国指定重量文化財
* 木造釈迦如来坐像及び諸尊像(木造騎獅文殊菩薩及脇侍像・木造騎象文殊菩薩及十羅刹女像)(平安時代) -  - 平成30年2件の重要文化財を1件に統合指定
* 木造菩薩坐像(平安時代)  - 県指定有形文化財 ほか
 
== 展覧会への出展 ==
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* 開山時に行基が身に付けていたと伝わる二十五条の[[袈裟|僧伽梨]](そうぎゃり)が残る<ref>『寒河江市史 上巻』</ref>。
* 天仁の再建時に鳥羽院より下賜された一切経は[[享保]]10年([[1725年]])の時点で既に焼失したと考えられていたが、その一部が宮城県名取市の[[熊野神社 (名取市)|新宮寺]]で昭和53年([[1978年]]) - 昭和54年([[1979年]])の調査により発見された。熊野新宮寺一切経として国の重要文化財に指定されている。
* 天仁元年(1108(1108)、藤原基衡が丈六堂に安置した丈六釈迦像は享保10年(1725年)の時点で、胴体部分を焼失し頭部のみを本堂に安置していたが、明治の廃仏毀釈により売却されたのち胴体を復元され、アメリカへ渡ったという<ref>『みちのく慈恩寺の歴史』</ref>。
*大日如来の納入主[[笠間時朝]]の実父[[塩谷朝業]]([[1174年]] - [[1248年]])・養父[[宇都宮頼綱]]([[1172年]] - [[1259年]])は出家し、[[法然]]の高弟[[証空]]に師事した。証空は[[源通親]]の[[猶子]]であり、同じく猶子であった寒河江氏始祖[[大江親広]]とは義兄弟にあたる。なお、小山寺の寺伝によれば戦国時代に同寺は無住となり、本尊も行方が分からなくなったという<ref>『中世の山形と大江氏』より「読売新聞」</ref>。
* 慈光明院([[山形市]])には永享2年(1430年)の銘のある[http://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1074 金銅装笈](こんどうそうおい)があり、背面に慈恩寺禅定院の漆銘が記されている(国の重要文化財)。また、[[寛元]]5年([[1247年]])に作成されたとみられる[http://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1309 木造阿弥陀如来坐像]も昭和になってから禅定院より移管されたもので、県指定有形文化財である。
* 本堂には66本の柱が使用されており、全国六十余州の安寧を願ったものであるという<ref>『みちのく慈恩寺の歴史』p.76</ref>。
* 浄土宗不動山[[正覚寺 (寒河江市)]]の阿弥陀堂は禅定院の阿弥陀堂を移築したものである。また、寒河江市幸生の薬師堂は弘法大師御影堂を移築したものである。
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: 5月5日。楽の音を合図に三か院より住職が出仕し、本堂にて弥勒法一座を修し、舞台上では声明を唱える。引き続き、慈恩寺一山衆と林家が慈恩寺舞楽八番の舞を披露する。(13:30 -)
 
* 御影供(みえく)
: 真言宗の開祖 弘法大師[[空海]]が入定した日に勤修する法会。法会の後一般の参拝者に(一銭一服)のお茶を捧げる。(5月)
 
* 東北36不動尊霊場会の柴燈護摩会
: 6月1日。
 
* 柴燈護摩会(さいとうごまえ)
: 9月第2日曜日。一山衆徒による修験行法。護摩札の祈願文を読み上げながら火炎に投入する。法螺貝の音を合図に本堂前から山中の護摩炉に登り、柴に点火する。(10:00 -)
 
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: [[東儀秀樹]]コンサート
* 2013年8月24日
: [[高橋竹山 (2代目)|高橋竹山]]の世界
* 2014年8月30日
: [[鼓童]]ゆき逢ひ
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
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== 外部リンク ==
* [http://www.honzan-jionji.jp/ 本山慈恩寺公式ホームページ]
* [http://www.tohoku36fudo.jp/reijyou/index2.html 東北三十六不動尊霊場会]
* [https://www.pref.yamagata.jp/bunkyo/bunka/bunkazai/8700015shitei1ran.html 山形県内の指定文化財]
* [http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/ 全国遺跡報告総覧]
* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース]
* [http://www.city.sagae.yamagata.jp/ 山形県寒河江市公式ホームページ]
 
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