「桜花 (航空機)」の版間の差分

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桜花の記事は数日間に渡り紙面を飾り、6月1日の[[朝日新聞]]の「霹靂の如き一瞬敵艦ただ死のみ」という見出しの記事には、当時海軍の報道班員だった作家[[川端康成]]の「神雷(桜花のこと)こそは実に恐るべき武器だ(中略)これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ」「親飛行機の胴体に抱かれて行く、いわば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の形をしていて色彩も優美で全く可愛い(中略)神雷による勝機は今眼前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等に恥づかしくない心をもって生産戦に戦い抜かう、爆撃に断じて屈するな」という談話を載せている<ref>朝日新聞 1945年6月1日 2面記事</ref>{{#tag:ref|川端康成は『[[新潮]]』1955年8月号の終戦10周年の特集号に、[[三島由紀夫]]・[[志賀直哉]]ら作家計25名で「昭和二十年の自画像」として戦時を振り返り寄稿した「敗戦のころ」という特集記事で「沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と書いているが、神雷桜花部隊についての記事に談話は寄せていたことになる。|group="注釈"}}。
 
また[[日本放送協会|NHK]]も6月13日より数日間に渡って、神雷桜花部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送を全国に流したが、その際に報道班員だった作家[[山岡荘八]]が司会や解説をしている<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.398〜P.399</ref>。山岡は取材を終えて東京に帰るさいに司令の岡村から、第一回目の出撃で戦死した野中の位牌に岡村が供えていた、ウィスキーの角瓶や果物の缶詰といった当時では貴重だった大量のお供え物を「東京も焼け野原と聞いている。家族は困っているでしょう。せめて、これをリュックに入れていってあげなさい」と渡されている<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.548</ref>。
 
その後、軍や国民の期待とは裏腹に桜花特攻は1945年6月22日第十回神雷桜花特別攻撃隊6機の全滅と沖縄戦の終結により一旦出撃が中止され、本土決戦準備として、陸攻搭乗員400名と母機の一式陸攻は1945年7月に石川県の[[小松飛行場|小松基地]]に移動、岡村司令ら司令部要員は[[松山海軍航空隊|松山基地]]に移動、桜花搭乗員75名は[[宮崎県]][[日向市]]の冨高基地に移動したが、出撃することもなくそのまま終戦を迎えている<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.431</ref>。
 
また、桜花は本土決戦の為の有力兵器と看做され、弱点の航続距離の延長型や地上から発射可能な桜花などの開発も進められたが、実戦に投入されることは無かった。(詳細は[[#派生型]]を参照)