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新しいページ: 「'''伊藤梅宇'''(いとう・ばいう、1683年8月19日-1745年10月28日)江戸時代中期の儒学者。伊藤仁斎の次男に…」
 
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==生涯==
京都に生まれる。幼少より父の塾で学び、23歳の時に父が亡くなると長兄の東涯に代わって弟たちの指導にあたる<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤梅宇|year=1940|title=見聞談叢|publisher=岩波文庫|pages=296p}}</ref>。正徳5年([[1715年]])、梅宇が33歳の時に[[徳山藩]]に仕えたが翌年の2月には致仕し、京都に戻っている。享保3年([[1718年]])、[[福山藩]]に儒臣として出仕。妻子とともに移住して俸30口を受ける<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤梅宇|year=1940|title=見聞談叢|publisher=岩波文庫|pages=297p}}</ref>。翌年に藩主・[[堀田阿部正福]]が朝鮮使節の接待を命ぜられた際、使節の求めに応じて父の著作『[[童子問]]』を贈呈、さらに韓聘接談の役目を務め仁斎が創始した堀川学派の主要テキストである『論語古義』『中庸発揮』『大學定本』『古学指要』などを贈っている。享年63で卒す。備後福山(現・広島県福山市)の定福寺に葬る。
 
長男・輝祖から代々、福山藩に仕え明治に至った。