「天久宮」の版間の差分

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この『琉球国由来記』の創建伝承が現在の社伝となっており、『沖縄の神社』においても成化年間の創建説を紹介している<ref>『沖縄の神社』2000年 p40より。</ref>。また、[[慶安]]元年([[1648年]])に初版が開板された『[[琉球神道記]] 巻第5』<ref>『琉球神道記』1943年。</ref>の「天久権現事」にも、上記伝承とほぼ同様の内容が記載されている<ref>『[[琉球神道記]] 巻第5』の「天久権現事」では目軽村(めかるむら)の翁子となっている。また『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』の〔天久山聖現寺〕の段には「神道記に見ゆ」と記されており、『琉球国由来記』が『琉球神道記』を参照していることを窺わせている。</ref>。
 
当社は[[真言宗]]8公寺の一つである聖現寺(現在も当社に隣接)に併置の神社として、官社の制により琉球八社とされた。官社へは王府から神職の役俸並びに営繕費が支給されたが、当社へは神職として[[祝部]]・内侍・宮童が置かれた。また、祝部・内侍が[[神楽]]の際に着用する服装は全て王府の寺社座から支給を受けた<ref name="shukyoushi5-2-3">『琉球宗教史の研究 第5編 明治の宗教政策 第2章 社寺禄の処分 第3節 社禄の処分(神社)』より。『琉球宗教史の研究』1965年。</ref>。
 
[[明治時代]]に入り、 [[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]により琉球王国が廃され[[沖縄県]]が置かれると、当社は近代社格制度により無格社とされた。『琉球宗教史の研究』によれば、沖縄県行政府では当社を村社に列することを立案したが、経済的な理由から村社列格が出来ず、また社殿その他の設備においても不備な点が多々あって村社列格が事実上不可能であることから、とりあえず無格社として残置し、追々維持拡張整備して村社に引き直す根基を充実するよう努めることになったとしている<ref name="shukyoushi5-4-2">『琉球宗教史の研究 第5編 明治の宗教政策 第4章 社寺組織の改革 第2節 神社組織の改革』より。『琉球宗教史の研究』1965年。</ref>。
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