「ジョージ・マクレラン」の版間の差分
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==生い立ちと初期の経歴==
[[フィラデルフィア]]において、
ウェストポイントでの士官候補生マクレランは精力的な野心家であった。[[デニス・ハート・マハン]]に深く師事し、[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ]]の戦略理論に興味を持った。南部の良家出身の学生である[[J・E・B・スチュアート]]、{{仮リンク|ダブニー・モーリー|en|Dabney H. Maury}}、[[カドマス・M・ウィルコックス]]、[[A・P・ヒル]]らと親交を深めたことは、マクレランに南部への同情心を与えることとなった<ref>Rowland, ''Leaders'', p. 260; Rafuse, pp. 36. McClellan's friend James Stuart was a South Carolinian killed skirmishing with Indians in 1851.</ref>。絵を描く能力で{{仮リンク|チャールズ・シーフォース・スチュワート|en|Charles Seaforth Stewart}}に劣っていたため<ref>Rowland, ''Leaders'', p. 260.</ref>に、1846年、59人中2番の席次で卒業した。卒業後は少尉に名誉昇進し、[[アメリカ陸軍工兵司令部|陸軍工兵司令部]]に着任した<ref name=Eicher371>Eicher, p. 371.</ref>。
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