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==生い立ちと初期の経歴==
[[フィラデルフィア]]において、{{仮リンク|[[トーマス・ジェファーソン大学|label=ジェファーソン医科大学|en|Thomas Jefferson University}}]]の創設者である著名な眼科医{{仮リンク|ジョージ・マクレラン (眼科医)|label=ジョージ・マクレラン|en|George McClellan (physician)}}博士の第3子(次男)として生まれた。母親のエリザベス・シュタインメッツ・ブリントン・マクレランはペンシルベニアでも著名な家の出で、「かなりの優雅さと気品」を持ち合わせていた<ref>Rowland, ''Leaders'', p. 259.</ref>。夫妻にはフレデリカ、ジョン、ジョージ、アーサー、メアリーの5人の子供がいた。祖父は[[アメリカ独立戦争]]時の将軍、{{仮リンク|サミュエル・マクレラン|en|Samuel McClellan}}であった。1840年、マクレランは13歳で[[ペンシルベニア大学]]に入学し、法学を志した。2年後、目標を軍人に変更する。父親から[[ジョン・タイラー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]へ手紙を書いてもらい、1842年に[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|ウェストポイント]]に入学したが、これは入学基準の16歳以下でのことであった<ref>Sears, ''Young Napoleon'', p. 3; Rafuse, pp. 10, 27&ndash;28.</ref>。
 
ウェストポイントでの士官候補生マクレランは精力的な野心家であった。[[デニス・ハート・マハン]]に深く師事し、[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ]]の戦略理論に興味を持った。南部の良家出身の学生である[[J・E・B・スチュアート]]、{{仮リンク|ダブニー・モーリー|en|Dabney H. Maury}}、[[カドマス・M・ウィルコックス]]、[[A・P・ヒル]]らと親交を深めたことは、マクレランに南部への同情心を与えることとなった<ref>Rowland, ''Leaders'', p. 260; Rafuse, pp. 36. McClellan's friend James Stuart was a South Carolinian killed skirmishing with Indians in 1851.</ref>。絵を描く能力で{{仮リンク|チャールズ・シーフォース・スチュワート|en|Charles Seaforth Stewart}}に劣っていたため<ref>Rowland, ''Leaders'', p. 260.</ref>に、1846年、59人中2番の席次で卒業した。卒業後は少尉に名誉昇進し、[[アメリカ陸軍工兵司令部|陸軍工兵司令部]]に着任した<ref name=Eicher371>Eicher, p. 371.</ref>。