「ルーヴル美術館」の版間の差分

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===12世紀から20世紀 ===
 
==== 中世、ルネサンス期、ブルン王朝期 ====
[[File:Donjon chateau louvre.JPG|left|thumb|ルーヴル宮殿地下室。中世ルーヴル城の面影が残る唯一の場所。<ref name="Mignot 32"/>]]
現在ルーヴル美術館として使用されているルーヴル宮殿は、12世紀に[[カペー朝]]第7代のフランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]](在位1180年 - 1223年)が[[要塞]]として建設したルーヴル城をもととしており、当時の建物の面影が現在も[[地下室]]に残っている<ref name="Mignot 32">Mignot,&nbsp;p.&nbsp;32</ref>。ただし、ルーヴル城が、すでに存在していた別の建造物を増改築した要塞だったのか、一から建てられた要塞だったのかどうかは伝わっていない<ref name="Edwards"/>。セーヌ川の中洲である[[シテ島]]は、[[中世]]においてもパリの中心地であった。[[都市]]の防衛という面で、街の中心を流れるセーヌ川自体が防御の弱点となっていたため、防衛要塞たるルーヴル城が建設された<ref>『ルーヴル美術館の歴史』, pp. 17-18.</ref>。円筒形で、径約15メートルの[[キープ (城)|ドンジョン]](主塔、天守)の周囲に方形の城壁(約78×72メートル)を巡らした要塞は、20年余の歳月を要して完成した<ref>『ルーヴル美術館の歴史』, p. 17, 23.</ref>。この城壁は、現代のルーヴルのシュリー翼の位置にあたり、シュリー翼の中庭(クール・カレ)の南西側4分の1の面積に相当する。当時のルーヴルは[[宮殿]]ではなくまさに要塞であり、建物の役割は大部分が牢獄や人質の監禁場所にあてられていた<ref>『ルーヴル美術館の歴史』, p. 23.</ref>。パリ市の防衛のために建造されたルーヴル城であったが、この[[城]]が[[イギリス|英国]]など外国からの攻撃にさらされることは、結局なかった<ref name= "lvr 24">『ルーヴル美術館の歴史』, p. 24.</ref>。当時のルーヴルの[[遺構]]は、後の[[ナポレオン3世]]の時代、1866年にも[[発掘]]調査が行われているが、本格的・学術的な発掘調査が行われたのは1984年から1986年のことである<ref>『ルーヴル美術館の歴史』, pp. 22-23.</ref>。また、1991年に発掘された城壁の一部は、[[地下]]の[[ショッピングセンター]]の大ホールで一般に公開されている<ref name= "lvr 24" />。