「フランクフルト - ゲッティンゲン線」の版間の差分

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ヘッセン選帝侯国と[[プロイセン王国]]の併合以後、ベーブラ - フランクフルト鉄道のフルダ - ハーナウ区間は1867年5月から1868年12月まで三段階で開通された。全通の当時ヘッセン山稜でトンネル建設はとても難しくて、費用は高かった。それでトンネルの代わりに[[スイッチバック]]区間が建設された。エルム駅(現在のエルム信号場)は1873年フルダ - マイン線が開業されるまで折り返し駅 (Spitzkehrbahnhof) だった。その時もベーブラ - フランクフルト線で通行した列車はシュリュヒテルントンネルの開通までエルム駅で方向を転換せねばならなかった。
 
ダイナマイトの発明以後トンネル建設技術は飛躍的に発展し、1909年シュリュヒテルントンネルの建設が始まった。1914年2月トンネルはシールド工法で完成され、同年5月から列車通行は可能となった。第二次世界大戦の間にこの路線は連合軍の戦略的な標的だったので、例えば1944年12月シュリュヒテルンとゲルンハウゼンは空襲を受けた<ref>Hans-Günter Stahl: ''Der Luftkrieg über dem Raum Hanau 1939-1945''. In: ''Hanauer Geschichtsblätter 48''. Hanau 2015. ISBN 978-3-935395-22-1{{OCLC|931866860}}, S. 220</ref>。
 
終戦後にはハンブルク方面の列車編は[[マイン=ヴェーザー線]]からこの路線に移られた。1961年9月電気設備が設置されて、アシャフェンブルク発電所とフリーデン変電所から電力が供給された。電化の過程で橋梁は新たな車両限界 (Lichtraum) で、そしてシュリュヒテルントンネルの多孔質穹窿 (poröses Gewölbe) は1961年まで一年間ほど改修された。この路線の改良は1970年のドイツ連邦鉄道の改修プログラムの一部だった。改修企画案はドイツ連邦交通計画1973 (Bundesverkehrswegeplan 1973) で含まれていた。改修計画はドイツ連邦交通計画1980には外されたが、ドイツ連邦交通計画1985には再び登場した。1986年の計画には55 kmの区間で200 km/hの速度向上を実現することが含まれた。