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[[ファイル:Ōkuninushi Bronze Statue.jpg|thumb|right|240px|[[出雲大社]]にある大国主の銅像]]
{{神道}}
'''大国主'''(おおくにぬし)は、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』に登場する[[日本神話]]の[[神]]である。[[国津神]]の代表的な神
== 神話における記述 ==
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大国主は多くの別名を持つ。
* 大国主神(おおくにぬし の かみ)・大
* 大穴牟遅神(おおなむ
* 八千矛神(やちほこ-) - [[スセリビメ|須勢理毘売]]との歌物語での名
* 葦原醜男・葦原色許男神・葦原志許乎(あしはらしこを) - 根国での呼称
* [[大物主|大物主神]](おおものぬし-)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名
* 大
* 伊和大神(いわお
* 所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称。
* 地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ)- 祝詞『大国神甲子祝詞』での呼称
* 幽世大神(かくりよ の おおかみ)- 祝詞『幽冥神語』での呼称
* 幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
* 杵築大神(きづき の おおかみ)
== 妻・子孫 ==
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== 信仰 ==
医療神としての信仰の事例を近世挙げると、[[1883年]](明治16年)10月に[[明治天皇]][[皇后]]([[昭憲皇太后]])<ref>[[#大社叢書四]]コマ4-5(原本3-4頁)『三、皇后陛下(昭憲皇太后)出雲大佐へ御祈願』</ref>もしくは大正天皇の生母[[柳原愛子]]が病弱だった明宮(のち[[大正天皇]])の健康を祈り<ref>[[#大正天皇物語]]コマ17-19(原本9-12頁)</ref>、[[出雲大社]]より大国主の分霊をとりよせ、明宮が生活していた[[中山忠能]]邸の神殿に祀っている<ref>[[#大正天皇(原2000)]]31-32頁『アマテラスではなくオオクニヌシ』</ref><ref>[[#大社叢書四]]コマ6-7(原本6-8頁)『四、中山邸内へ出雲大社御分靈奉遷』</ref>。
大正天皇は皇太子時代の1907年(明治40年)[[5月27日]]、[[東郷平八郎]]元帥等と共に<ref>[[#大社叢書四]]コマ8-12(原本11-19頁)『七、出雲大社へ御参拝』</ref><ref>[[#皇太子殿下島根県行啓日誌]]コマ60-62(原本115-119頁)『出雲大社御参拝』</ref>、出雲大社を参拝した<ref>[{{NDLDC|2950518/3}} 明治40年5月29日官報第7172号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3]『○東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨二十七日午前九時今市町御旅館御出門島根縣女子師範學校ヘ行啓續テ杵築町御箸出雲大社御参拝午後同縣立杵紫中學校ヘ行啓同四時三十分御旅館ヘ還御アラセラレタリ』</ref><ref>[[#大正天皇(原2000)]]112-114頁『公式の山陰巡啓』</ref>。先述の「記紀にて人々に医術を教えた事による医療神信仰」に加えて、大正天皇は[[己卯]]の年の生まれ(平易に言えば干支は卯年の生まれ)であるので、(大国主の兄弟神たち・八十神に嘘の治療法を教えられて浜辺で泣いていた兎を正しい治療法・蒲の穂の花粉で癒やしたという[[因幡の白兎]]の)<ref name="出雲暗号38" />逸話等から験を担いだものとされる。
===神仏習合===
「大国」はダイコクとも読めることから同じ音である[[大黒天]](大黒様)と習合していった。{{refnest|name="朝日日本歴史人物_大国主命"|[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E5%91%BD-449820#E6.9C.9D.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.9C.AC.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E4.BA.BA.E7.89.A9.E4.BA.8B.E5.85.B8 「大国主命」 - 朝日日本歴史人物事典]。朝日新聞出版。}}
=== 大国主を祀る主な神社 ===
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