「マチュ・ピチュ」の版間の差分

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[[ファイル:Intihuatana Machu Picchu.jpg|太陽の神殿のインティワタナ|thumb]]
現在では要塞ではなく、東西が断崖のマチュ・ピチュは太陽の動きを知るのに絶好の場所であったことや、[[インカ帝国]]では太陽を崇拝し、皇帝は太陽神の子として崇められ、暦を司っていたことから、インカ人が崇めていた太陽を観測するための建物群と推測されている。実際に太陽の神殿は東側の壁が2つ作られていて、左の窓から日が差し込む時は[[冬至]]、右の窓から日が差し込む時は[[夏至]]と区別できるようになっている。また、処女たちを生贄にしたといわれてきた台座上の遺構もやはり太陽を観測するものであり、「'''インティワタナ'''(太陽をつなぐもの)」<ref>{{Cite book|和書 |author = 新建築社 |year = 2008 |title = NHK 夢の美術館 世界の名建築100選 |publisher = [[新建築社]] |page = 64 |isbn = 978-4-7869-0219-2}}</ref>という意味の石の台の削りだされた柱は、1種の[[日時計]]だったと考えられている。
 
また、ビンガムがマチュ・ピチュから運搬してきた多数の人工遺物が、[[1920年代]]の[[ニューヨーク・タイムズ]]紙の包装のまま箱に梱包され、イェール大学の地下倉庫で眠っていた。サラザール博士はブロンズの宝飾品、道具類、骸骨片、特に壺について再調査を行った。その結果、壷の様式は全て、15世紀のものであった。墓の埋蔵物については、質素なものが多く、王族ではなく召使のものと推定された。