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差分

コーヒーのこだわりについて加筆。販売を行っているので冒頭に「実業家」を追記。
| 備考 = 『グローバルレインボーシップ』理事<br />『[[全米映画俳優組合]]』会員<br />『[[水曜スペシャル#スイスペ!|スイスペ!]]』藤岡弘探検隊隊長
}}
'''藤岡 弘、'''(ふじおか ひろし、[[1946年]][[2月19日]]<ref name="怪人大画報">{{Harvnb|仮面ライダー怪人大画報|2016|p=203|loc=「仮面ライダー スタッフ・キャスト人名録 2016年版」}}</ref> - )は、[[日本]]の[[俳優]]、[[タレント]]、[[武道家]]<ref name="怪人大画報" />、[[声優]]、[[歌手]]、[[ナレーター]]、[[実業家]]。本名:{{読み仮名|'''藤岡 邦弘'''|ふじおか くにひろ}}<ref name="profile1">{{Cite book|和書|year=2001|title=テレビ・タレント人名事典 第5版|pages=914|publisher=[[日外アソシエーツ]]|id=ISBN 978-4816916779}}</ref><ref name="怪人大画報" />、旧芸名は最後の[[読点]]「、」がない'''藤岡 弘'''<ref name="怪人大画報" />。
 
[[1971年|1971年(昭和46年)]]に主演した[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]『[[仮面ライダー]]』で一躍人気俳優となる<ref name="怪人大画報" />。また、日本人として初めて[[映画俳優組合|全米映画俳優組合]]('''SAG'''、現・'''[[:en:SAG-AFTRA|SAG-AFTRA]]''')のメンバーとなった事でも知られる<ref name="怪人大画報" />。[[2002年|2002年(平成14年)]]に[[川口浩 (俳優)|川口浩]]の後任として『藤岡弘、探検シリーズ』が開始されて以降、'''“藤岡隊長”'''が愛称になっている<ref name="pia_eiga">{{Cite news |title=“隊長”藤岡弘、実はヘビが嫌い! インディ・ジョーンズ顔負けの冒険談を披露|url=http://cinema.pia.co.jp/news/0/48071/|newspaper=ぴあ映画生活 |date=2012-09-12 |author=内田涼|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140214003943/http://cinema.pia.co.jp/news/0/48071/ |archivedate=2014-02-14|accessdate=2014-02-14}}</ref>。
 
== 略歴 ==
[[1946年]][[2月19日]]、[[日本の警察官|警察官]]で全国的にも知られた[[柔道]]家、家伝の流派の[[古武道]]である「藤岡流」を継承する武道家でもあった父と、[[茶道]]や[[華道]]、[[琴]]の師範だった母との間に生まれる。当時の生家は[[駐在所]]で、近所には[[四国八十八箇所|四国八十八箇所霊場]]の第四十四番[[札所]]である[[大寶寺|菅生山 大覚院 大寶寺]]があり、母はよくお遍路さんに「お接待」を施してもてなしていたのが印象的だったとしている。生まれたばかりの頃は病弱で、[[肺炎]]を患った時には「もうダメだろう」と医師から告げられる中、「[[遺影]]に…」と写真が撮影された程だった。この時は母の献身的な看病で一命を取り留めるが、小学校に上がってからも、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な線の細い子供だった。6歳の頃から病弱を心配した父から武道の手ほどきを受け、肉体と精神の修行・鍛練の中、病弱を克服する。少年時代から[[滝行]]も経験している <ref name ="OCN page1">{{Cite web |url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people01.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」1ページ|publisher=OCN TODAY |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131001011319/http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people01.html|archivedate=2013-10-01|accessdate=2014-01-21}}</ref>。
 
小学校時代は、父の仕事の都合で転校が多く、よく[[いじめ]]の対象にされた。そんなある日、我慢できなくなって相手に反撃し、重傷を負わせる。すぐさま母の知るところとなり、帰宅するなり仏壇の前に連れて行かれ、凄まじい形相で「あなたがこれ以上、人様に迷惑をおかけするんだったら、私があなたの命をいただきます。そして私もあなたの後を追います。それでよろしいですか?」と、母子[[心中]]も辞さない覚悟を示され、反省を促された。弁解しようとすると「ならぬものはなりません! 先祖の血を汚してはいけません、ちゃんと先祖に謝りなさい!」と、一切の反論を認めなかった。その迫力に、武道の怖さとともに母の本気を知り、猛省したという。また、父との思い出としては、家の道場の掃除を言いつけられ、窓の桟や畳の縁など「手抜き」をして掃除をさぼると、父はそれを見抜き、その場所を指でなぞるとそれを舐め「馬鹿者! お前は自分の心を掃除しているということを忘れたのか! 掃除というのは己の心を掃除することなのだ。心を清らかに、掃除をしたところを舐めてもいいくらいの掃除をお前はしてるのか」と、よく怒鳴られたと述べている<ref name ="OCN page1" />。また「一子相伝」とされる家伝の古武道について、「人に見せるな、教えるな、商いにするな」と、特に厳しく申し渡されていたという<ref name="産経関西">{{Cite news |title=桐山靖雄×藤岡弘、8月15日特別対談「命を敬い明日に進む」|url=http://www.sankei-kansai.com/2013/08/15/20130815-066298.php|newspaper=産経関西 |date=2013-08-15 |archiveurl=http://archive.is/8gubf |archivedate=2014-02-14|accessdate=2014-02-14}}</ref>。
 
[[1957年]]、小学校6年の時に父が突如[[失踪]]。その日から家族の暮らしは貧しさを極め、3度の食事にも事欠き、学校に給食費すら納められない状況に陥る。藤岡はこの頃から[[アルバイト]]で生活を支える一方、惨めな生活を誰にも相談できず、後年まで父を許すことができなかったと語っている<ref group="注釈">その後、[[1980年]]頃に父から突然電話が入る。父は静かな口調で「お前には財産も何も残してやれなかったが、地位や名誉という財産は他人に奪われることはあっても、『生き方』という財産は決して奪われない。だから、お前も誇りを持って生きなさい」と告げられた。しかし、突然のことでその言葉を理解しようとは思わなかった。その数日後、父の死を知らされて父の知人たちから失踪の真相を聞かされるうち、父に対する不信感は氷解したという。その真相については「差し障りがある」として明かしていないが、幼少時から父によく聞かされた「この国のために生きたい」との思いに、決して恥じないことだったとしている。</ref><ref>{{Cite book |和書|author=[[週刊現代|週刊現代編集部]]|year=2002|title=おやじ、ありがとう|page=134-135|publisher=[[講談社]] |isbn=9784063389586}}</ref>。
 
[[1961年]]、松山聖陵高等学校に入学。柔道部に在籍して主将を務めた。長身でその容姿・容貌が一際目立つこともあり、よく[[不良行為少年|不良]]にからまれた。ある日、「5人以上はいた」という不良にからまれ、相手の攻撃はすべて見切った上で、かわしたり間合いを外したりしていたが、止まらないために堪忍袋の緒が切れて、集団に1人で反撃する(逃げた者もいたが、すべて撃退した)。ただ、武道を通じて我慢することや耐えることが日常だったため「堪忍袋の緒は(人より)長いですよ。物凄く我慢強いですよ」と語っている<ref name ="OCN page2">
{{Cite web |url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people02.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」2ページ
|publisher=OCN TODAY
[[1972年]]、[[日本放送協会|NHK]]ドラマ『[[赤ひげ (1972年のテレビドラマ)|赤ひげ]]』のオーディションを受けて合格したが、『仮面ライダー』の制作元である[[東映]]・[[毎日放送]]には無断でのことだったため、トラブルが発生。『赤ひげ』への出演は見送られることになった<ref group="注釈">ちなみに、藤岡が演じる予定だった保本登役には[[あおい輝彦]]が配役された。この時、『赤ひげ』の合格に加え、[[1973年]]の[[大河ドラマ]]『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』のオーディションにも合格しており、[[織田信長]]役にキャスティングされていたが、信長役には改めて[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]がキャスティングされた。藤岡としてはあくまで「勉強のため」との意識であり、合格するつもりなどなかったという。この作品での信長は高橋の当たり役となったが、藤岡は『おんな太閤記』([[1981年|1981年(昭和56年)]])や『春日局』([[1989年|1989年(平成元年)]])で信長役を演じることとなる。</ref>。藤岡は一時失踪。このことは『仮面ライダー』の第66 - 68話と劇場版『[[仮面ライダー対じごく大使]]』の制作に影響を及ぼしている(詳細は『[[仮面ライダー対じごく大使#藤岡弘の失踪と制作中断|藤岡弘の失踪と制作中断]]』を参照)。
 
同年7月1日、[[ファンクラブ]]「藤岡弘友の会」が発足<ref name="変身大全集">{{Cite book |和書|date=1995-11-30|title=[[テレビマガジン]]特別編集 変身ヒーロー大全集|publisher=[[講談社]] |pages=130-133|chapter=概説 変身ブームの変遷|isbn=4-06-178419-6 }}</ref>。ひと月で5万人が入会したが、会員は子供がほとんどのため会費を多くとることができず赤字運営となり、スポンサーからの寄付金で賄われた<ref name="変身大全集" />。
 
[[1973年]]、[[12月29日]]公開の[[東宝]][[映画]]『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』([[監督]]:[[森谷司郎]])に主演。1974年邦画部門興行収入第1位の大ヒットとなる。
[[1977年]](31歳)、[[4月6日]]から[[テレビ朝日]]系でスタートした東映制作の[[刑事ドラマ]]『[[特捜最前線]]』に桜井哲男(哲夫)警部役でレギュラー出演。途中、他作品への参加のため、一時降板しているが、その後復帰。10年間に及ぶ人気長寿番組となった今作品の中で、[[二谷英明]]、[[本郷功次郎]]らと共に「番組の顔」的存在として中枢を支えた。
 
[[1984年]](38歳)、SFサムライ映画『[[SFソードキル]]』(制作国:アメリカ、監督:J・ラリー・キャロル)の主演を務め、国際俳優となる<ref name="怪人大画報" />。日本人として初めて[[全米映画俳優組合]]へ加入する<ref name="怪人大画報" />。この映画を見て感激した[[オーストラリア]]の総督]]([[イギリオートラリア]]の名目上の[[元首]]である[[エリザベス2世|エリザベス女王に次ぐオーストラリア]]トップ代理人)は、のちに結婚したばかりの藤岡夫妻に対して、新婚旅行先としてオーストラリアに招待したほどであった。
 
[[1986年]]には[[東京国際ファンタスティック映画祭]]でヒーロー賞を受賞。[[1987年]]、『白い牙』で共演した[[俳優|女優]]・[[鳥居恵子]]と結婚(3年3ヵ月後に離婚)。
[[2008年]]、[[テレビ愛知]] - [[テレビ東京]]系『[[トミカヒーロー レスキューフォース]]』の劇場版『[[トミカヒーロー レスキューフォース 爆裂MOVIE マッハトレインをレスキューせよ!]]』(監督:岩本晶、制作:ドッグシュガー、制作・配給:松竹)では、俳優としての古巣である松竹作品で、レスキューフォースR0こと世界消防庁長官・刑部零次役で出演。「37年ぶりに仮面ライダー以外のヒーローに変身する」として話題となった。この役についても、藤岡自身から「謎の男っぽさや過去の出来事をイメージ」して顔や手の傷、衣装、「変身後は(汚しや傷を入れて)少し古いデザインのスーツに変えてもらえないか」などスタッフに役作りのアイデアが出されている(ただ、変身後のスーツは「全員が同じスーツを着用する」と言う番組上の制約のためデザインの変更はされていない)。また『レスキューフォース』の続編である『[[トミカヒーロー レスキューファイアー]]』([[2009年]]4月 - [[2010年]]3月、テレビ愛知 - テレビ東京系)でも同じ役を演じた。
 
[[2014年]][[1月23日]]、33年ぶりに[[徹子の部屋]]にゲスト出演<ref>{{Cite web |url=http://ameblo.jp/samurai-do/entry-11754840902.html|title=藤岡弘、が33年ぶりに「徹子の部屋」に出演 ! |publisher=藤岡弘、オフィシャルブログ「藤岡弘、の侍道」Powered by Ameba |date=2014-01-23|archiveurl=http://archive.is/V9eYb|archivedate=2014-02-20|accessdate=2014-02-19}}</ref>。この中で敬愛する母が[[2013年]]の春に103歳で他界した事を報告した。下積み時代には自分の着物を[[質屋|質草]]にし、『SFソードキル』での[[ハリウッド]]進出の際には既に高齢だったにも関わらず自ら現地に足を運ぶなど、明治生まれの気丈さで藤岡をまさに物心両面で支え続けた。亡くなる直前まで意識が鮮明で「子供のことを考えて生きるように」と藤岡を諭したあと、眠るように息を引き取ったという<ref>{{Cite web |url=http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/back2000/html/140123.html|title=徹子の部屋 / 今週の徹子の部屋 / 1月23日(木) / 出演 藤岡弘、 - 「103歳で逝った母の武勇伝」|publisher=[[テレビ朝日]] |date=2014-01-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140219150644/http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/back2000/html/140123.html|archivedate=2014-02-19|accessdate=2014-02-19}}</ref>。
 
同年[[5月13日]]、自ら企画したフジテレビ系のドキュメンタリー番組『海を越えた侍たち〜藤岡弘、が[[ブラジル]]で見つけた日本人の心〜』<ref>{{Cite web |title=海を越えた侍たち〜藤岡弘、がブラジルで見つけた日本人の心〜 |url=http://www.fujitv.co.jp/samurai/index.html |publisher=[[フジテレビジョン]] |date= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140616142422/http://www.fujitv.co.jp/samurai/index.html |archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref>の取材・収録のため訪[[ブラジル|伯]]中、過去5回の訪伯でのボランティア支援で日本とブラジルの国際交流に貢献したことや、日系人社会を正しく伝えるための番組作りなどが評価され、ブラジル連邦議会より「感謝表彰」、名誉下院議員より「大十字勲章」が授与された<ref>{{Cite news |title=「日本の若者よ、日系社会見て」=藤岡弘、さんTV取材で来伯=〃バナナ王〃山田さんらと意気投合=「日本人の誇りを取り戻せ!」 |url=http://www.nikkeyshimbun.jp/2014/140516-71colonia.html |newspaper=JORNALニッケイ新聞 |date=2014-05-16 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140616140755/http://www.nikkeyshimbun.jp/2014/140516-71colonia.html|archivedate=2014-06-16 |accessdate=2014-06-16 }}</ref>。
 
[[2015年]]、[[ベストジーニスト|ベストジーニスト2015]](協議会選出部門)を受賞<ref>{{cite web|url=http://www.oricon.co.jp/news/2060266/full/|title=【ベストジーニスト】ローラ、V3で殿堂入り 7人目選出「本当にうれしい」|publisher=ORICON STYLE|date=2015-10-05|accessdate=2015-10-05}}</ref>。
* 大好物は[[自然薯]]で、特に掘りたてを水で洗い、そのまま食べるのを好んでいる。煮物や[[ホヤ]]の[[膾|酢の物]]など和食全般のほか、[[クリ]]や[[羊羹]]などの甘い物も好物。嫌いなものは[[アスパラガス|ホワイトアスパラガス]]で、『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』の「[[とんねるずのみなさんのおかげでした#新・食わず嫌い王決定戦|新・食わず嫌い王選手権]]」で明らかになった。
* 所持している資格は[[調理師免許]]、[[普通自動車免許]]、[[小型船舶操縦士]]、[[特殊自動車|大型特殊自動車]]免許、[[大型自動二輪車|大型自動二輪]]免許、[[自家用操縦士]]免許、[[スキューバダイビング]]、[[無線従事者]]免許(アマチュア)、[[鉄砲]]<ref name = "star meikan" />。このうち、大型自動二輪については750ccに乗ろうと教習所無しで受けた試験に3回の不合格を経て4回目で合格し、『仮面ライダー』の終了後に初めて[[ホンダ・CB750]]を購入したそうである<ref>{{cite web|url=http://news.mynavi.jp/articles/2016/03/22/kamenrider/|title=藤岡弘、大型自動二輪免許に何度もチャレンジした過去告白 - 公開記念トークショーにネオサイクロン号と登場|publisher=マイナビニュース|date=2016-03-22|accessdate=2016-03-25}}</ref>。
* 少年時代に[[ヘビ]][[カエル]]を飲み込む姿を見て以来、ヘビが[[トラウマ]]になっているという<ref name="pia_eiga" />。そのためか、事務所の裏には「[[ニホンマムシ|マムシ]]注意」と書かれた看板があるという(『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜]]』で紹介されている)。
* [[コーヒー]]を愛飲しており、1日に5、6杯は飲むという。自ら汲みにいくほどのお気に入りの富士山系の自然水を沸かして「ありがとう」「おいしくなれ」と呟きながら、時間をかけて1滴ずつゆっくりドリップし、[[抹茶]]のように[[茶せん]]でかき回して十分に空気を含ませてから嗜むという独自の手法が、テレビで紹介されている<ref>{{Cite news |title=「仮面ライダー」から40年。藤岡弘、驚異の若さを語る|url=http://nikkan-spa.jp/45642|newspaper=[[SPA!|日刊SPA!]]|date=2011-08-23 |archiveurl=http://archive.is/vhdg |archivedate=2012-07-21|accessdate=2014-02-14}}</ref>。これ以外に、[[エチオピア]]で知ったという粗挽きしたコーヒー豆を[[薬缶]]で煮出すワイルドな飲み方を楽しむこともある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32356380Y8A620C1HF0A00/ 藤岡弘、さん「この無造作な味いいねぇ」/「俺のワイルド珈琲道」]『[[日経MJ]]』2018年6月29日(トレンド面)2018年7月15日閲覧。</ref>。自身の[[ホームページ]]では[[有機農産物|オーガニック]]の「藤岡、珈琲直筆のコーヒーカップなどを自身に関する各種グッズとともに販売も行っている<ref>[http://www.samurai-hiroshi-shop.jp/ 有機栽培 藤岡、珈琲](2018年7月15日閲覧)。</ref>
* 酒も嗜んでいたが、[[2013年]][[8月4日]]に行われた平山亨の「お別れ会」に参列した際、同席した[[堀田眞三]]に「期するところがあって酒を辞めました」と明かしたことが伝えられている<ref name ="hotta_shinzo">{{Cite web |url=http://ameblo.jp/hottashinzo/entry-11586636714.html|title=〜〜平山亨;プロデューサー お別れ会〜〜|publisher=我が俳優人生 ここに記す 堀田眞三 |archiveurl=http://archive.is/S8Tpu|archivedate=2013-08-15|accessdate=2013-08-15}}</ref>。
* [[英会話]]を得意としており、アメリカ映画への出演を通じて知り合った映画監督の[[ジェームス・キャメロン]]とは「キャメロン」「サムライ」と呼び合うほど、親交が深い<ref>ただし、キャメロンの作品に出たことは一度も無い。</ref>。[[2009年]]5月に出版された『藤岡弘、の[[武士道]]入門』([[並木書房]])は、著者の[[小峯隆生]]が、ある日、来日中だったキャメロンと[[浅草]]で蕎麦を食べている際にキャメロンから「明日サムライに会いに行くんだ」と、藤岡を紹介されたことがきっかけで小峯が藤岡に「弟子入り」し、出版に至った書籍である。また、この中で藤岡は元[[アメリカ陸軍]]大尉で軍事評論家の[[飯柴智亮]]と対談を行っているがおり、その際に飯柴から[[アフガニスタン]]の戦場で実際に使用した[[ナイフ#ファイティングナイフ|護身用ナイフ]]を譲られている。
* こうした藤岡のこだわりや暮らしぶりに関して[[2013年]][[7月3日]]放送のバラエティ番組『ドラゴンレイディSP』<ref group="注釈">制作:フジテレビバラエテイ制作センター、チーフプロデューサー・演出:挾間英行、演出:奥村達哉、森田篤、司会:[[バナナマン]]、[[生野陽子]] 出演者:[[デヴィ・スカルノ]]、[[淡路恵子]]、[[中尾ミエ]]、[[美川憲一]]、[[ミッツ・マングローブ]]ほか。</ref>([[フジテレビジョン|フジテレビ]])では「自称、現代の侍と豪語する藤岡弘、」と紹介、「藤岡がコーヒー1杯を入れるのに30分、車移動込みだと合計2時間かかった」と誇張や虚偽、揶揄を加えて事実と異なる内容を放送。「侍」と自ら名乗ったこともなく、コーヒーの時間も大げさで、ロケ場所などは番組側の指定によるものだった<ref>{{Cite news |title=フジ、藤岡弘、に「誤った表現」し謝罪|url=http://www.oricon.co.jp/news/movie/2027902/full/|newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2013-08-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131108071452/http://www.oricon.co.jp/news/movie/2027902/full/ |archivedate=2013-11-08
|accessdate=2014-02-14}}</ref>。この事実についてフジは[[8月20日]]付けの同局の公式サイトで藤岡とその関係者、ならびに視聴者への「訂正とお詫び」のコメントを掲載<ref>{{Cite web |url=http://www.fujitv.co.jp/kokuchi/130820.html|title=【フジテレビからのお知らせ】バラエティ番組「ドラゴンレイディ」藤岡弘、氏ご出演VTRに関する訂正とお詫び|publisher=[[フジテレビジョン]] |date=2013-08-20|archiveurl=http://archive.is/VTXyI|archivedate=2013-08-23|accessdate=2014-08-23}}</ref>。所属事務所も公式ブログでこのことに関する公式コメントを発表している<ref>{{Cite web|url=http://ameblo.jp/samurai-do/entry-11598177439.html|title=フジテレビからの謝罪文の掲載について |publisher=藤岡弘、オフィシャルブログ「藤岡弘、の侍道」Powered by Ameba |date=2013-08-23|accessdate=掲載日と同日に}}</ref>。このトラブルをきっかけに、番組は打ち切りとなった。
* 映画『[[ラストサムライ]]』のオーディションのオファーを引き受けたが、結果としては起用されなかった。
* 藤岡は自身の生き方について、過去を振り返らず失敗しても自身で納得いくまで追求する姿勢であることを述べており、いる。何事に対しても全力で取り組む姿が笑い者にされていることも認識しているが、他者からどう思われるかよりも自身で納得できるかどうかを重視している<ref name="71-84">{{Harvnb|仮面ライダー1971-1984|2014|pp=62-65|loc=「INTERVIEW 藤岡弘、」}}</ref>。信念を貫くことで灰汁の強い役者になったと自認しており、それによりクライアントから敬遠されることもあったと述べている<ref name="怪人大全集202" />。
 
=== 芸名に読点(「、」)を付けるまで ===
世界各地の紛争地帯や被災地などへの救援ボランティアとしても勢力的に活動している<ref name="怪人大画報" />。[[1993年]]の[[北海道南西沖地震]]の際には「映画撮影の際にお世話になったので」と水などの援助物資を持てるだけ持って[[奥尻島]]に駆けつけ、当時の新聞もこの行動に「仮面ライダーは実在した」と大きく記事になった。また、[[2011年|2011年(平成23年)]]の[[東日本大震災]]の際にも、被災地へ1トンの米を寄付している<ref>{{Cite news |title=藤岡弘、: 被災地へ1トンの米送る「仮面ライダーから勇気をもらって」とエール|url=http://mantan-web.jp/2011/04/02/20110401dog00m200033000c.html|newspaper=[[まんたんブロード|MANTANWEB]] |date=2011-04-02 |archiveurl=http://archive.is/cj7z |archivedate=2012-07-12|accessdate=}}</ref>。
 
1990年頃より雑誌、新聞で[[統一教会]]との関連性が報道されるようになる。[[1992年|1992年(平成4年)]]9月、「[[東京スポーツ]]」などで「統一教会の信者」と報じられた。詳細は統一教会の名を隠した自己啓発セミナーの広告塔になっていただけであり、本人はまったく関与がなかった{{要出典|date=2015年11月}}。
 
[[1998年]]、「梁山泊空手道連盟<ref>{{Cite web|url=http://www.ryozanpaku-karate.com/profile/profile.html|title=梁山泊空手プロフィール|publisher=梁山泊空手道連盟|accessdate=2014-03-11}}</ref>(代表:富樫宜弘<ref group="注釈">「[[日本空手道無門会]]」代表・富樫宜資の実弟。</ref>)」を中心に結成された「眞日本武道空手道連盟<ref>{{Cite web|url=http://www.ryozanpaku-karate.com/renmei/renmei.html|title=加盟団体・会員募集|publisher=眞日本武道空手道連盟|accessdate=2014-03-11}}</ref>」・名誉会長に就任。
 
コーヒー豆などの[[電子商取引|インターネット販売]]を行っている(「[[#人物|人物]]」の項を参照)。
 
== エピソード ==
=== 上京・デビュー当初 ===
上京した時は、養成所に入る予定はあったものの確かな当ては何もなく、泊まる場所もないため[[上智大学]]の横の土手で[[野宿]]するなどしていた<ref name="OFM1">{{Harvnb|OFM仮面ライダー1|2004|p=26|loc=「主演俳優の素顔1 藤岡弘、」}}</ref>。藤岡は後年のインタビューでこの頃を振り返り、たった一人きりで世間と向き合う自身にとっては世間そのものが[[ショッカー]]のようであったと述べている<ref name="OFM1" />。
 
養成所入所後も東京の流れの速さについていくのが精一杯であり、周囲が優秀であったため劣等感を感じていた<ref name="OFM1" />。
当初、藤岡は本郷猛役だけでなく仮面ライダーのコスチュームも着用し、[[スーツアクター]]を兼任していた。危険度の高いアクションを除き、[[トランポリン]]を使用したアクションやオートバイで階段を登るバイクアクションなどもこなしている<ref group="注釈">シーンによっては、[[大野剣友会]]の[[岡田勝]]・[[中村文弥]]・[[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]]が演じ分けている。</ref>。藤岡はスーツアクションを行うことは特別なことではなく当然だと思っていたが、その苦労までは想像できておらず<ref name="OFM1" />、後年のインタビューでは過酷な撮影ゆえに毎日現場へ向かう際に恐怖を感じていたことを明かしている<ref name="71-84" />。第1話の撮影では、マスクをつけてのアクションは自身の息で前が見えなくなり、革製のスーツも動きづらかったが、準備に忙しいスタッフに申し出ることはできなかったことを述べている<ref name="大全集226">{{Harvnb|仮面ライダー大全集|1986|pp=226-231|loc=「スペシャルSTAFF CAST座談会 仮面ライダーを語る」}}</ref>。
 
こうして撮影に取り組んでいたが、第9話・第10話<ref group="注釈">第9話「恐怖コブラ男」([[1971年]][[5月29日]]放送分)、第10話「よみがえるコブラ男」([[1971年]][[6月5日]]放送分)。</ref>では下り坂をバイクで走り下りるシーン<ref group="注釈">走り下りるシーンは第10話のラストカットとして使用されている。</ref>でコーナーを曲がる際、たまたま工事中だったために砂利が多い場所で、オーバースピードからスリップし、曲がりきれないまま電柱を支えるワイヤーに突っ込む。その際にワイヤーに足が引っかかってワイヤーが跳ね上がり、そのまま反動でバイクとともに飛ばされるという[[事故|アクシデント]]に見舞われる。藤岡は路上を2 - 30メートル転がって動けなくなったが、事故直後はまだ意識があり、背中の後ろの方から肩越しに見えていた自分の左脚を元の位置に戻し、靴が脱げていたために親指が動くかを確認し、かすかに動いたことに安心したところで意識を失ったという。容体は全身打撲のうえに左大腿部の骨が粉砕して筋肉に刺さる複雑骨折の状態で、全治3か月 - 6か月の重傷と診断され、長期休養を余儀なくされる<ref name="OCN page3">{{Cite web|url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people03.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」3ページ|publisher=OCN TODAY|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029202517/http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people03.html |archivedate=2013-10-29|accessdate=2014-01-21}}</ref>。この事故以降、[[仮面ライダーシリーズ]]の主演俳優は演出上の一部例外を除いてスーツアクターを兼務することはなくなり、スーツアクターは全面的に[[大野剣友会]]やジャパン・アクション・クラブ(JAC、現・[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAE]])所属の[[スタント]]マンが担当するようになった。
 
救急搬送後、最初に手術を受けた[[東京都]][[町田市]]内の病院は骨の接合手術に関して旧態依然とした技術しか持っておらず、藤岡は同じ病院で手術を受けた患者から「大腿部を複雑骨折して同様の手術を受けて1年ほど入院しているが、まだ完治していない」と聞かされ、[[車椅子]]生活すら覚悟した。この状況を知った知人の紹介で、東京都[[渋谷区]][[千駄ヶ谷]](当時)の[[赤坂見附前田病院|前田外科病院]]に転院できることとなったが、当初、最初の病院は転院希望を断り、転院が決定した後も「(転院に関して)当院は一切保証しない」と、移動のための[[ストレッチャー]]などを用意することなく黙視し、[[診療録|カルテ]]や[[X線撮影#外傷のX線写真|レントゲン写真]]などの必要な情報提供も拒んだ。前田外科病院で行われた再手術では、[[ベトナム戦争]]の[[傷痍軍人]]のために開発されたという方法が用いられたが、それは筋肉に刺さっていた左脚の骨片を丹念にすべて拾い集め、[[大腿骨]]の[[骨髄]]に金属パイプを通してその周りに骨片を細いワイヤーで巻きつけるというものだった。それまで日本ではほとんど実例がなく、当時の最新技術だったこの手術は無事に成功した<ref name="OCN page3" />が、『仮面ライダー』第1話の放送は病室のベッドで観ざるを得なかった{{Sfn|仮面ライダー1971-1984|2014|p=57|loc=「制作第11話-第12話」}}。ギプスが外れると、[[看護師]]の眼を盗んで筋肉がすっかり委縮して痩せ細った左脚の筋力強化のため、周囲が寝静まった時間帯にトレーニングを始めるが、その過酷さゆえに夜ごと床には汗だまりができたほか、時には発熱したため、日中になると疲れきって寝込むという「戦い」の日々を数か月送る。そんな当時のことを、藤岡は「看護婦さんとかに『この人は寝てばっかりだなぁ』って思われたのではないかなぁ」と振り返っている<ref name="OCN page3" />。藤岡は後年のインタビューで、この時の体を動かせない苦痛やスタッフに多大な迷惑をかけたという想いで気持ちが先走っていたが、長い思索と心身ともに痛みに堪えなければならないという状況で精神的な成長を遂げることができたと述べている<ref name="怪人大全集202" />。
 
放送開始前の大事故で主演俳優の重傷という事態は、番組の存続に関わる一大事であり、通常であれば即刻番組降板も止むなしという状況に、緊急企画会議では[[MBSテレビ|毎日放送]]側から本郷猛を死亡させる案も出た。しかし、東映プロデューサー・[[平山亨]]は「子供たちのオールマイティーの夢を壊すことはできない」としてこれに強硬に反対すると、代案として2号ライダー登場のアイデアを取りまとめ、主役交代を機にこれまでの反省点を一気に修正し、番組をリニューアルすることで継続を決めた。これが功を奏し、番組は第14話<ref group="注釈">第14話「魔人サボテグロンの襲来」([[1971年]][[7月3日]]放送分)。</ref>から登板した藤岡の劇団NLT時代の同期である[[佐々木剛]]演じる[[一文字隼人|一文字隼人 / 仮面ライダー2号]]の人気で社会現象となるほど、大ヒット作と化した<ref group="注釈">佐々木は、藤岡の復帰が正式に決まった際にスタッフから「是非ダブルライダーで引き続き主演を」と依頼されたが、「藤岡君がカムバックするまでという約束で引き受けたのだから、藤岡君に返すべきだ。自分がいたままでは彼が付録のようになってしまう。」と固辞すると、当初の約束どおりに第52話『おれの名は怪鳥人ギルガラスだ!』([[1972年]][[3月25日]]放送分)をもって降板した(詳細は[[仮面ライダー#本郷猛(仮面ライダー1号 / 新1号)の復帰]]を参照)。</ref>。
 
『仮面ライダー』での本格復帰は第53話<ref group="注釈">第53話「怪人ジャガーマン決死のオートバイ戦」([[1972年]][[4月1日]]放送分)。</ref>からだが、第40話・第41話<ref group="注釈">第40話「死斗(しとう)! 怪人スノーマン対二人のライダー」([[1972年]][[1月1日]]放送分)、第41話「マグマ怪人ゴースター桜島大決戦」([[1972年]][[1月8日]]放送分)。</ref>にゲスト出演という形で現場復帰を果たし、1971年末の[[桜島]]・[[阿蘇山]]での[[ロケーション撮影|ロケ]]に参加する。この時、骨折箇所にはまだ金属パイプと固定用のボルトが入っており、傷口は[[絆創膏]]と包帯で抑えた状態だった<ref name="大全集226" />。主治医からは「下手すると脚のパイプが曲がって抜けなくなるばかりか、一生歩けなくなるかもしれない」と猛反対されたが、藤岡は「この舞台を用意してくれたスタッフのため、それでも構わない」とロケを強行する<ref name="大全集226" />。ただ、最初の撮影シーンがバイクに乗るスタントシーンで、目の前に事故を起こしたバイクが置かれていた時は「頭が真っ白になった」と語っている<ref name ="OCN page4">{{Cite web |url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people04.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」4ページ|publisher=OCN TODAY|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131030225700/http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people04.html|archivedate=2013-10-30|accessdate=2014-01-21}}</ref>。撮影中には足から鉄棒が出かかって出血するなどしていたが、東京へ戻ってすぐ[[X線撮影|レントゲン撮影]]で曲がっていないことが確認され、無事に除去手術が行われた<ref name="大全集226" />。回復後の左脚はわずかに長くなってしまい、長年の腰痛の元になってしまったと自伝で述べている{{Full|date=2015年12月}}。
 
==== 後年の活動 ====
大きなアクシデントを乗り越えて『仮面ライダー』で全国的に知名度が上がったものの、{{要出典範囲|藤岡はあまりの人気ぶりに、当初は自分自身がそのイメージで固定されてしまうのを怖れたほどだった|date=2015年12月}}。こうした理由もあり、のちの仮面ライダーシリーズでは、本郷役での客演が実は少ない<ref group="注釈">声のみの出演は『[[仮面ライダーV3]]』第21話と映画『[[仮面ライダーV3対デストロン怪人]]』、映画『[[五人ライダー対キングダーク]]』、『[[仮面ライダーストロンガー]]』第38話、映画『[[オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー]]』、顔出し出演は『V3』第1話・第2話・第33話・第34話と『ストロンガー』第39話と[[全員集合!7人の仮面ライダー!!|正月特番]]だけである。『[[仮面ライダー (スカイライダー)]]』と『劇場版[[仮面ライダースーパー1]]』、『[[仮面ライダーZX]]』、『[[仮面ライダーBLACK RX]]』、『[[劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー]]』にも1号が登場しているが、藤岡自身は出演しておらず、素顔の本郷としての登場シーンはない。『オールライダー』では1号の声を声優・[[稲田徹]]が担当した。</ref>
 
{{要出典範囲|ただ、本人は自分の役者としての飛躍が『仮面ライダー』をきっかけにしたものであることは当時から忘れておらず、俳優として地歩を築くことに成功した現在では、「『仮面ライダー』は僕の青春でした」と語り、[[ゲームソフト]]などでも本郷を演じている。また、「自分の代わりに怪我をしてくれたアクションチームの裏方のみんなを差し置いて、ヒーロー役だったということで今さら自分だけが表に出るわけにはいかないと思った」とも後年語っている|date=2015年12月}}。
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