「アルハンブラ宮殿」の版間の差分

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== 歴史 ==
アルハンブラは構造的には一つの城塞都市であるが、当初から全体の形が計画されていたのではない。異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体であり、時代により、建築様式や形状などが異なっている<ref>{{Cite book|和書 |author = [[光嶋裕介]] |year = 2017 |title = 建築という対話 僕はこうして家をつくる |publisher = [[筑摩書房]] |page = 203 |isbn = 978-4-480-68980-1}}</ref>。その前半は[[ムーア人]]王朝の栄枯盛衰と共にあり、[[9世紀]]末イベリア半島南部を版図としていた[[後ウマイヤ朝]]末期の、アルカサーバと呼ばれる砦が原形であると言われている。これは、[[アラブ人]]が農民の反乱軍からの防御壁として築いたものである。
 
イスラム教徒がイベリア半島に進出する前、[[8世紀]]初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にあった。[[711年]]、ウマイヤ朝の北アフリカ総督である[[ムーサー・イブン・ヌサイル]]が武将ターリクに命じ、[[トレド]]までを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏となった。この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝であるが、このときの都はまだ[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]であり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。