「インドにおける仏教の弾圧」の版間の差分
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'''インドにおける仏教の弾圧'''(インドにおけるぶっきょうのだんあつ)では、[[5世紀]]頃に[[インド]]で起きた[[仏教]]の弾圧について述べる。これにより、[[13世紀]]までに
{{see also|[[インドにおける仏教の衰退]]}}
== ミヒラクラ王の破仏 ==
[[5世紀]]中期に[[アフガニスタン]]で勃興し、5世紀末には[[グプタ朝]]と衝突し、[[ガンダーラ]]・[[北インド]]を支配した[[エフタル]]では、その王{{仮リンク|ミヒラクラ|en|Mihirakula}}(Mihirakula、在位[[512年]] - [[528年]]頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた。この王のことは、『[[洛陽伽藍記]]』に附載される、[[北魏]]の官吏[[宋雲]]と沙門恵生の旅行記『[[宋雲行記]]』に見ることが出来る。ミヒラクラは、[[ゾロアスター教]]系と思われる「天神火神」を信仰し、仏教を弾圧したとされる。弾圧された仏教側では、この事件を契機に[[末法思想]]が盛んになり、東アジアに伝えられることとなる。[[隋]]代に中国に来朝した[[訳経僧]]
== イスラム教の侵攻 ==
[[中世]]における後期インド仏教(後期密教)は[[パーラ朝]]のもとで庇護を受けていたが、6世紀に[[南インド|インド南部]]で始まった[[ヒンドゥー教]]改革運動の[[バクティ運動]]<ref>http://www.y-history.net/appendix/wh0201-086.html</ref>や、12世紀に[[アフガニスタン]]からの[[イスラム教]]政権([[ゴール朝]])のインド侵略で、インドの仏教徒は壊滅状態となった。
[[偶像崇拝]]を否定することを理由にイスラム教徒は、軍事侵攻に伴ってインド各地の仏教寺院<ref>ヒンドゥー教や[[ジャイナ教]]寺院も徹底的に破壊された</ref>を徹底的に破壊するとともに、仏教寺院の僧侶と尼僧を
== 現代インドにおける仏教の再興 ==
また、[[チベット仏教]]の[[ダライ・ラマ14世]]がインド北部の[[ダラムサラ]]に[[ガンデンポタン]]([[チベット亡命政府]])を樹立していることから、亡命チベット人組織を中心にチベット仏教の小さな拠点にもなっている。
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*[[蓮華面経]]
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[[Category:仏教の歴史]]
[[Category:宗教的な差別]]
[[Category:インドの
[[Category:インドの歴史|ふつきようのたんあつ]]
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