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[[豊臣氏]]の人質となった経緯から[[豊臣秀頼]]と交流があった。[[関ヶ原の戦い]]では、上杉軍の追撃の総大将となる。1614年の[[大坂の役|大坂冬の陣]]の直前に、大坂方へ通じている嫌疑をかけられ、兄・家親に居城の[[清水城 (出羽国)|清水城]]を攻められて、嫡子・義継と共に自害を余儀なくされた。
義親は豊臣家に人質になったのに対し、家親は徳川家に仕えた立場にあり、兄弟仲はあまり良くなかったとされる。また、義康が殺害された後も義親の領内では義康から義親に与えられた「義康」の印判が入った文書が発行され続けており、義親が義康を支持していて家親に反感を抱いていたとする見方もある<ref name=胡/>。
== 脚注 ==
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