「アレクサンドル・ペチェルスキー」の版間の差分

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[[ヴャジマ]]近くでドイツ軍の捕虜となり捕虜収容所に送られる<ref name="Arad(1987)306"/>。4回脱走を試みたが、すべて失敗におわった<ref name="Arad(1987)306"/>。[[ボリソフ]]にあった懲罰収容所へ送られた<ref name="Arad(1987)306"/>。ここで裸にされた際に[[割礼]]が施されていることから[[ユダヤ人]]であることを気付かれた<ref name="Arad(1987)306"/>。ユダヤ人絶滅計画を取り仕切る[[親衛隊 (ナチス)|SS(ナチス親衛隊)]]の管理下へと移されることとなり、[[ミンスク]]にある親衛隊の[[強制収容所 (ナチス)#強制労働収容所|強制労働収容所]]へ送られた<ref name="Arad(1987)306"/>。ここにはユダヤ人ソ連兵捕虜や[[ミンスク・ゲットー]]から連れてこられたユダヤ人などが集められていた<ref name="Arad(1987)306"/>。ここにいた将校級捕虜はペチェルスキーを含めて二人だけだった。もう一人の将校捕虜は階級が[[少佐]]だったが、陰気な性格の人物だったので結局ペチェルスキーが捕虜囚人たちのリーダー的存在となっていく<ref name="Arad(1987)307">[[#Arad(1987)|Arad(1987)p.307]]</ref>。
 
ペチェルスキーら捕虜囚人たちは1943年9月27日に[[ソビボル強制収容所]]に送られた<ref name="Arad(1987)307"/>。彼らは[[ガス室]]の存在する区画において[[ゾンダーコマンド (強制収容所)|ゾンダーコマンド]](自分の延命と引き換えに、他の囚人をガス室へ送ったり死体を片付けたりする任に当たったユダヤ人による特殊部隊)として働いた。同時に脱走計画をたてていた労働囚人の[[レオン・フェルヘンドラー]]らとともに脱走計画を練った。SS看守を全員殺害して正面ゲートから悠然と脱走する計画であった。
 
ペチェルスキーらは所長[[フランツ・ライヒライトナー]][[親衛隊大尉|SS大尉]]とその片腕[[グスタフ・ワーグナー]][[親衛隊曹長|SS曹長]]が収容所を離れていた1943年10月14日にこの脱走計画を実行にうつした。副所長の[[ヨハン・ニーマン]][[親衛隊少尉|SS少尉]]はじめ看守のSS隊員たちを一人ずつおびき寄せてナイフで殺害していったが、11人殺害したところでSSにばれてしまった。ペチェルスキーは急きょ生き残っている囚人たちの前で自由を求める演説をおこない、600人の囚人たちが大脱走を試みた。SS隊員の銃撃と収容所の周囲に設置されていた地雷原により囚人たちも次々と死亡したが、300人が収容所から逃げることに成功した。しかしその後多くの者がSSに捕まって処刑されたため、戦後を迎えることができたのはわずか50人程度であった。