「源為義」の版間の差分

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[[永長]]元年([[1096年]])、[[源義親]]の四男として生まれる{{Refnest|group="注釈"|『[[尊卑分脈]]』の記載から[[源義親]]の四男とする見解が一般的であるが、[[佐々木紀一]]は『尊卑分脈』成立以前の中世系図<ref>北酒出本『源氏系図』、長楽寺本『源氏系図』、妙本寺『源家系図』、『佐竹家系譜』</ref>や藤原忠実の日記<ref>『殿暦』天仁2年2月17日条の「義家朝臣四郎男為義」</ref>の文言などから、為義は義家の四男であったとする説を提唱している<ref>「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』45、2009年)</ref>。}}。『[[尊卑分脈]]』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・[[源義家]]は三男・[[源義忠|義忠]]を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。この記述に従えば、幼少の為義は叔父の義忠や祖父の義家と共に京にいたと思われる{{Refnest|group="注釈"|『尊卑分脈』によれば義親の男子は、為義を含めて6人いる。義親の正室は肥後守・[[高階基実]]の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、[[贖銅]]の刑を科された。[[角田文衛]]は、義信(長男)・[[源義俊 (右馬允)|義俊]](次男)・[[源義泰|義泰]](三男)・[[源義行|義行]](五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は[[庶子]]だったのではないかと推測している。為義の母の項目には「同義国、中宮亮[[藤原有綱|有綱]]女」とあるが、これは義家の妻(義国・義忠の母)が為義を養育していたことを示すものと考えられる<ref>角田文衛「源為義の母」『王朝の明暗-平安時代史の研究 第2冊』東京堂出版、1977年</ref>。また、為義を義家の四男とする説<ref>佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』45、2009年</ref>を採るならば、「同義国、中宮亮有綱女」の記述は養母ではなく実母ということになる。}}。
 
[[嘉承]]元年([[1106年]])に義家が死去すると義忠が家督を継ぐが、[[天仁]]2年([[1109年]])に暗殺された([[源義忠暗殺事件]])。義忠の叔父・[[源義綱]]一族が嫌疑を受けて追討の対象になると<ref group="注釈">『尊卑分脈』の義忠傍注によれば義綱は[[冤罪]]であり、真犯人は義綱の弟の[[源義光|義光]]とされる。</ref>、義忠の嫡男・[[河内経国|経国]]が幼少であったため、為義は[[美濃源氏]]の[[源光国]]と共に追討使に起用され、義綱を捕縛して京へ凱旋した。この功により、為義は14歳で[[衛門府|左衛門少尉]]に任じられた。<ref>追討使に選ばれたことから元木は為義が義忠の後継者とされていた「尊卑分脈」の記述を妥当とし、義親派の反発を和らげる策であったのではとした。(『河内源氏』109頁)</ref>
 
初期の為義は院との関係が深く、摂関家と懇意だった様子はない。『[[愚管抄]]』には白河法皇が「光信、為義、保清の三人を検非違使に任じ、即位したばかりの鳥羽天皇を警護させた」とあり、[[永久の強訴]]や[[保安 (元号)|保安]]4年([[1123年]])の[[延暦寺]]の強訴では[[平忠盛]]と並んで防御に動員されるなど、院を守護する武力として期待されていたことが分かる。為義の最初の妻も白河院近臣・[[藤原忠清 (白河院近臣)|藤原忠清]]の娘で、長男の義朝を産んでいる。保安5年([[1124年]])頃には検非違使に任じられた。しかし、同い年で[[任官]]もほぼ同時だった忠盛が[[受領]]を歴任したのに対して、為義は一介の検非違使のまま長く留め置かれ、[[官位]]は低迷することになる。