「水野忠政」の版間の差分

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「[[寛政重修諸家譜]]」(以下「寛政譜」)が掲げるのは次の9男6女である。記載の順に示す。
1.   近守        藤九郎 和泉守            ?-1556年
2.   [[水野信元|信元]]        藤七郎 四郎衛門 下野守       ?-1576年(注1)
3.   女([[松平家広]]の妻)                        ?-1597年(注2)
4.三男 信近        藤四郎 藤九郎                1525年-1560年
5.四男 [[水野忠守|忠守]]        清六郎 織部          1525年-1600年
6.   女([[於大の方]])                       1528年-1602年
7.女  ([[石川清兼]]の妻)
8.女  (水野豊信の妻)
9.五男 近信        伝兵衛                ?-1602年
10.   忠勝        弥平大夫               ?-1568年
11.   某 (藤助)                       ?-1584年(注3)
12.   女([[中山勝時]]の妻)
13.   女(水野大膳亮忠守の妻)
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* 注2.「松平家広の妻」は「於上の方」(於丈の方)と呼ばれている。松平家広に嫁ぐ前の、最初の夫はかつての緒川城主で、天文2年(1533年)に緒川の地で「生害」したとされる[[水野成清]](常陸介成清)であり、間にもうけた子が[[水野長勝]](石見守)であるという(「寛政譜」6巻34項および6巻116項)。「寄居町史 近世資料編」(1983年)所収(530項)の「昌国寺文書」227(文久3年4月)に「水野石見守長勝母、水野右衛門大夫忠政嫡女」として、[[慶長]]2年(1597年)5月5日卒とある。法名は「覚法院殿月貞妙心大姉」で、「伝通院の姉」とされている。墓所は[[埼玉県]][[寄居町]]赤浜915の[[昌国寺]]。(ただし、忠政-信元=忠勝を嫡流とする、[[水野勝成]]以降の福山・結城水野家家譜では、「於上の方」が松平家広以前に婚姻していたことが認められないという。)
 
新訂「寛政譜」はその6巻116項で、天文2年3月24日に「戦死」もしくは「生害」した緒川城主、「成清」と、その父[[水野成政]](水野藤助。尾張国[[平島城]]主。城跡は愛知県[[東海市]]荒尾町金山周辺)を取り上げ、「[[寛永諸家系図伝]]」清和源氏満政流「水野-坤」では「水野藤助」を忠政の兄として扱う。乾坤院文書の「水野氏嫡流略系図」(前掲「東浦町誌 資料編3」513項)では成政(藤助)-成清-長勝の系統(水野石見守家)を嫡流とする。また、結城水野家とのあいだに、嫡庶についての争いがあったことが認められる(「寛政譜」6巻35項および116項)。
 
* 注3.「藤助」については「母は某氏」として「忠守」「於大の方」「近信」と母を違えること以外の記述がないが、前掲の「水野氏法名一覧」に、[[天正]]2年(12年の誤記と思われる。よって[[1584年]])4月9日に「於尾州[[小牧・長久手の戦い|長久手戦]]死」とある。しかし忠政の死から31年が経過しており、「一室全法信士」というのは30代の戒名としては不自然である。ちなみに「常滑水野家」監物守隆の子、「新七」がこの戦いに参加し、15歳で亡くなっている(「士林泝洄」36巻丁ノ二)。また「刈谷市史」第二巻の64項では天正2年を没年としている。
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5.女 (奥平貞勝の妻)
「寛永系図」も同様であるが、「賢正」および「清忠」については「某」とし、法名のみをあげる。また「清忠」の没年の記載がない。
「士林泝洄」は「貞守」-「為妙・下野守」-「賢勝・蔵人 」-「忠政」とする。
*注1.および注2.「元興」の没年は「寛政譜」新訂6巻106項に示されているが、逆算すると生年は1547年となり、「清忠」の没年と矛盾する。
「元興」の没年については「寛永系図」にも同様の記述があることから、「清忠」の没年を「うたがうべし」として本文に載せず、その但し書の中で、編纂時に提出された系図に欠落があるか、或いは「元興」の年齢を誤っているのではないかとしている(同33項)。もっとも「元亀2年12月22日」は元亀3年(1572年)12月22日の誤りであろう。ならば「[[三方ヶ原の戦い]]」に符合する。「水野家法名一覧」には「安光正全禅定門、行年廿五実名邦重」に加え、同日「仙道玄寿信士。水野左京進、於遠州浜松合戦討死」とあり、またこの戦いには信元と袂を分けて家康に仕えた忠重らが参加している。
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家康に仕え、関ヶ原の後に長崎奉行、次いで大坂と堺の町奉行を勤め、寛永9年より大目付、後5000石となる。
 
居城は常滑城([[愛知県]][[常滑市]]山方町)で、忠綱およびその子の墓所は同市山方町5-106の[[天沢院]]である。「政祖」の名がみえるのは「寛政譜」のみ。「寛永系図」の「水野-坤」では「某・山城守・法名花鴎」-「守次」と続くが、貞守らとの関係は明らかではなく、また「士林泝洄」は「某・大和守・常滑城主」-「某・大和守」-「守隆・監物」としたうえで、「忠綱」にあたる人物を忠政の兄弟とする。子孫は「守信」が「半左衛門」を名乗って旗本となり、戦死した「新七」の後には「信元」の孫が養子に入り尾張藩士となっている。
 
大高水野家(大膳家) 
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1.宗勝 藤太郎 善兵衛        [[元和]]2(1616年)1月29日卒
[[織田信雄]]に仕えて後、[[小田原の役]]において家康の旗下となり、500石を与えられる。
居城は[[大高城]]とされているが、これが名古屋市緑区の「大高城」と、武豊町の[[富貴城]]のどちらを指すのか明らかでないこと、また、「大膳亮忠守」と忠政の娘との婚姻を否定する立場があることは、さきに述べたとうり。「寛永系図・水野-坤」では「正長」および「正勝」(1505年-1581-1581年)とその子孫を示すのみ。また子孫に尾張藩士家がなく、それゆえ「士林泝洄」に大高水野家があらわれることはない。大膳亮忠守の二人の子「吉守」と「正勝」のいずれも旗本家である