「源義光」の版間の差分

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義忠暗殺事件への関与が軍記物的なので出典追加の上で修正
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京に帰った義光は刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。戦後、[[常陸国]]の有力豪族の[[常陸平氏]](吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。[[嘉承]]元年([[1106年]])、遅れて常陸国に進出してきた甥の[[源義国]]([[足利氏]]や[[新田氏]]の祖)と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙る。
 
同年の義家の没後、その後継者争いから義家の長男・義親が反乱して討伐され、[[天仁]]2年([[1109年]])、義家の後を継いで源氏の棟梁となっていた甥の[[源義忠]]が郎党に殺害された([[源義忠暗殺事件]])。当初源重実に疑いがかかっていたが、その後嫌疑は甥・源義明の乳母夫・藤原季方に向けられ、季方は義明と共に検非違使と戦い自害し、その父で義光の弟・義綱は東国へ出奔するも、[[源為義]]によって追討され甲賀山で降伏した(義綱の子息は全員自害)。この一連の事件について、『尊卑分脈』はその黒幕を義光とする。郎党の鹿島三郎([[平成幹]]と同名、同一人物か?)に命じて、義忠を暗殺させ、鹿島三郎は三井寺に逃亡するも義光に組した弟・快誉らの手によって生き埋めにされ殺害されたとされる。この事件字体は義家死後の河内源氏内部の対立があった影響とみられるが、義光の関与を含め真相は不明である。<ref>佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』45号、p19-29</ref>
同年の義家の没後に野心をおこし、[[河内源氏]]の棟梁の座を狙った。その手段として、弟で[[園城寺]]の僧・[[快誉]]と共謀し、義家の後継者として源氏の棟梁となっていた甥の[[源義忠]]、及び次兄の義綱の両者を滅ぼす算段を練った。まず郎党の藤原季方を義綱の子の[[源義明]]の郎党として送り込み、次いで長男・[[源義業|義業]]の妻の兄の[[平成幹]](鹿島三郎)を義忠の郎党として送り込んだ。
 
そして[[天仁]]2年([[1109年]])の春、義光は季方に義明の刀を持ちだすように命じ、その刀を鹿島三郎に与え、義忠暗殺の密命を下したのである。その結果、義忠は闘死([[源義忠暗殺事件]])。その現場に残された刀が源義明のものであることから、義忠暗殺の嫌疑は義明とその父である義綱に向けられる。そして、義綱一族は、義光の勢力圏である甲賀山で義忠の甥で養子である[[源為義]]によって討たれるのである。だが、実際に若年の為義が指揮をとっていたわけではなく、その背後には義光がいた(源義綱冤罪事件)。
 
また、藤原季方は義明と共に朝廷によって討伐されて自害、鹿島三郎も義光、及びその指示を受けた快誉らの手によって生き埋めにされ、事件の真相は闇の中へ消え行くはずであった。が、その真相が発覚し、義光は自身の勢力の強い常陸国に逃亡せざるを得なくなり、源氏棟梁への野望は潰えた。
 
最期については大治2年(1127年)10月20日に三井寺で死去したとする説が有力。病死とする説と殺害説がある。殺害説では、自身が暗殺した義忠の遺児・[[河内経国]]に討たれている。義忠の暗殺は源氏の凋落を招き、源氏の凋落は院政の陰謀が原因であるが、源氏内部での暗闘も衰退の原因であり、その中心人物は義光であった。
 
最期については大治2年(1127年)10月20日死去。
== 人物 ==
義光は弓馬の術にたけ、音律をよくしたという伝説がある。古武道の[[大東流合気柔術]]では、義光を開祖としている。また、[[流鏑馬]]に代表される弓馬軍礼故実である[[弓術]]、[[馬術]]、[[礼法]]の流派である[[小笠原流]]や[[武田流]]などは、古の武家の心と形をいまに伝えている。そして武田氏の[[嫡流]]に伝わった[[盾無]]鎧や、南部氏が今に伝えた菊一文字の鎧などにもそれは見られる。
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** [[石橋八幡神社]] - 源義光が勧進。[[山梨県]][[笛吹市]]
 
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典』[[河出書房]] 1985年初版