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地図ほか
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'''久野城'''(くのじょう)は[[茨城県]][[牛久市]]久野町にあった[[日本の城]]。
 
== 地理 ==
[[JR]][[常磐線]][[牛久駅]]の東へ約六・五6.5キロメートル、乙戸川北岸の台地上に位置している。城の南側は幅広い[[谷津田]]がひらけ、西および北側は[[牛久大仏]]に隣接している。城の占地する地形は舌状台地というより、むしろ独立丘に近い形と言える。小字名は延命寺山で、昔は寺院が建てられていたと言われている。
 
== 歴史 ==
 
江戸崎城を本拠とする[[土岐氏]]の支城として[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に築かれたようである。久野の観音寺の棟札には、[[永禄]]2年(1559年)には野口備前守の支配であり、[[天正]]5年(1577年)の棟札には、当郷領主土岐越前守と名前がある、この時点では土岐氏の支配下にあったことがわかる。久野城主の土岐越前守ト千(ぼくぜん)は、久野城を中心に下小池城などの支城と連携して西側を防備していたものと思われる。土岐氏の進出後、野口氏はその下で働き、土着し現在に至ったと考えられる。久野城の郭内には野口一族の墓地がある。
 
== 城の構造 ==
台地の南隅、主郭にあたる[[曲輪]]1には東北と西北に土塁、西北と西南に空堀、そして東南の斜面には二段ずつの腰曲輪がある。曲輪2は城内で最も広い面積を外郭と思われる。曲輪3と4はL字型の空堀により分断される。曲輪1と2に面する[[空堀]]に[[土塁]]があり、曲輪3の南斜面に二~三段の腰曲輪がある。曲輪3と4の北斜面に細長い腰曲輪が2~3段ある。曲輪1の[[虎口]]が東南と西北にある。
 
台地の南隅、主郭にあたる[[曲輪]]1には東北と西北に土塁、西北と西南に空堀、そして東南の斜面には二段ずつの腰曲輪がある。曲輪2は城内で最も広い面積をしめ外郭と思われる。曲輪3と4はL字型の空堀ホにより分断される。曲輪1と2に面する[[空堀]]に[[土塁]]があり、曲輪3の南斜面に二~三段の腰曲輪がある。曲輪3と4の北斜面に細長い腰曲輪が2~3段ある。曲輪1の[[虎口]]が東南と西北にある。
 
== 城の性格 ==
 
軍事的機能を優先させた城としてのイメージが強いようである。西・北方面に対する極度な防護体勢や広い面積の曲輪Ⅱによって裏付けられる。
 
 
== 参考資料 ==