「村上華岳」の版間の差分

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[[ファイル:Murakami-Kagaku-Rafu.jpg|thumb|right|180px|裸婦図]]
[[File:Murakami-Kiyohime-1919.jpg|thumb|130px|日高河清姫図]]
1888年([[明治]]21年)、[[大阪]]([[北区 (大阪市)|北区]][[枝町 (大阪市)|松ケ枝町]]<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000000874.html 大阪市 北区 日本画家・村上 華岳(むらかみ かがく)] 2018年7月19日閲覧。</ref>)に生まれる。本名は武田震一(のち村上震一)。家庭の事情により幼い頃に実父母のもとを離れ、叔母の嫁ぎ先である[[神戸市|神戸]]の村上家に預けられて、神戸の小学校に通った。1901年(明治34年)、震一13歳の時には実父が死に、実母は再婚して行方知れずとなり、少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。3年後の1904年(明治37年)、武田家の廃家が許可され、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなる。父方の祖母は、日本初の[[児童自立支援施設|感化院]]とされる「池上感化院」を自宅に設立した[[池上雪枝]]<ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E9%9B%AA%E6%9E%9D 池上雪枝 とは - コトバンク] 2018年7月19日閲覧。</ref>。
 
華岳こと村上震一は、1903年(明治36年)から1907年(明治40年)まで京都市立美術工芸学校に学ぶ。1909年(明治42年)には上級学校である京都市立絵画専門学校(現:[[京都市立芸術大学]])に入学して1911年(明治44年)に卒業。卒業と同時に同専門学校研究科に進学、1913年([[大正]]2年)に修了している