「イザベラ・バード」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
マクヴェイン日記からバード嬢に関する新たな知見が見つかった。
編集の要約なし
41行目:
イギリス・[[ヨークシャー]]で牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。宗教色の強い中流家庭で育った<ref name=yamada/>。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[カナダ]]を旅し、[[1856年]](安政3年)、{{lang|en|"''The Englishwoman in America''"}}を書いた。1857年に父親を亡くし、母親と妹とともにエジンパラに転居<ref name=yamada/>。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。『サンドイッチ諸島での六ヶ月』、『ロッキー山脈におけるある婦人の生活』を著す<ref name=yamada/>。
 
明治政府最初の御雇外国人の一人であったコリン・アレクサンダー・マクヴェイン(Colin Alexander McVean)の伝聞を通して日本に興味を持った。マクヴェインの妻(マリー・コーワン)はエジンバラの名家出身で、バードはコーワン家と交流があった。1873年に岩倉使節団がエジンバラを訪問したときには、マリーの兄のジェームス・コーワンが市長でった。バードはコーワン家と交流を通して、1878年2月、マクヴェインに旅行の助言と便宜を求め、紹介された人物を頼りに、4月9日にヨーロッパ大陸を経由して日本に向かった。
 
[[1878年]](明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った[[伊藤鶴吉]]を供とし、[[東京]]を起点に[[日光市|日光]]から[[新潟県|新潟]]へ抜け、日本海側から北海道に至る[[北日本]]を旅した(所々で現地ガイドなどを伴うこともあった)。また10月から[[神戸市|神戸]]、[[京都市|京都]]、[[伊勢市|伊勢]]、[[大阪市|大阪]]を訪ねている。これらの体験を、[[1880年]](明治13年)、{{lang|en|"''Unbeaten Tracks in Japan''" }}2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使[[ハリー・パークス]]、後に[[明治学院]]を設立するヘボン博士([[ジェームス・カーティス・ヘボン]])、[[同志社]]のJ.D.デイヴィスと新島夫妻([[新島襄]]・[[新島八重]])らを訪問、面会した記述も含まれている。1881年にピショップ博士と結婚<ref name=yamada/>。その後、[[1885年]](明治18年)に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される<!--(『日本奥地紀行』はこの普及版の翻訳である)-->。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、[[アイヌ]]の生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。