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[[鎌倉幕府]]第5代[[将軍]]・[[藤原頼嗣]]の近習となる。
 
父の歿後、[[隠岐国|隠岐]]・[[出雲国|出雲]]両国の[[守護職]]を相続したが、[[三浦泰村]]と諍いを起こし憤怒に任せて、[[建長]]2年([[1250年]])無断で[[出家]]をして心願と号した。この無断出家の罪により政義の職掌・所領は没収され、弟の[[佐々木泰清]]が、[[隠岐国|隠岐]]・[[出雲国|出雲]]両国の[[守護]]を継承した<ref>『[[吾妻鏡]]』第40巻、[[建長]]2年([[1250年]])12月大29日庚申條。「岐太郎左衛門入道心願者、佐々木岐前司義清が嫡男。幕府の近習也。 俄に以て出家 遁世令め訖。而るに若狭前司泰村、北條殿御縁者とし、殆ど武家の柄を極め、已に諸人之上首を爲すに似たり。時于、心願獨り異心を挿み坐着の上下の如き之事に就き、度々喧嘩に及ぶ。始終之を相うを不得と'''出家之企て'''此の事に於て起こすと云々。件の所領に於て者、舎弟次郎左衛門尉泰清に賜はる」による。</ref>。
 
[[正応]]3年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1290年]][[7月24日]])入寂。享年83