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アメリカにはMk1・Mk2が1960年代を通じて輸出され、自社の[[フォード・ピント]]などの米国製サブコンパクトカーが完成するまでの間、欧州や日本からの輸入小型車に対抗する商品として、全米のフォード販売網を通じて販売された。フォードの販売力によってそこそこの販売成績は収めたが、[[フォルクスワーゲン・タイプ1|VWビートル]]や日本製小型車の敵とはならなかった。[[1970年]]に[[フォード・ピント|ピント]]が登場するとコーティナの対米輸出は終了し、Mk3以降は販売されなくなったが、カナダへは1973年モデルまで輸出が続けられた。
 
その他の輸出先ではタウヌスが売られるケースが多かったが、[[スカンジナビア]]各国や日本ではコーティナとタウヌスは併売された。日本には、[[近鉄モータース]]・ [[ニューエンパイヤモーター]]・[[フォード・ジャパン|フォード自動車(日本)]]等によって輸入されたが、販売元は当時は車名を「'''コルチナ'''」と表記していた。また、日本復帰前の[[沖縄県|沖縄]]では「'''コティナー'''」として売られていた<ref group="注釈">「沖縄アーカイブス写真集」㈱生活情報センター刊 ISBN 4-86126-307-7 159ページに[[1965年]]頃の沖縄でのフォード販売店・コーラルアイルモーターの店頭の写真が掲載されており、それによると当時の英国フォード各車種は「Corsair」が「コセーヤー」、「Cortina」は「コティナー」、「Angria」は「アングリヤ」と標記されている。</ref>。
 
コーティナが日本でよく売れたのは、日本車の技術水準がまだ低く富裕なオーナードライバー向けの車種も少なかった1960年代までで、その後販売は先細りとなっていたが、[[1977年]]に[[フォード自動車(日本)]]はMk4の2.0ギア(3速オートマチック)を277万円という低価格で投入し、量販を試みた。しかしこの時期には[[オペル]]や欧州フォードなど米国資本系欧州車の需要はすでに落ち込み、このクラスの需要層はより「外車らしい」[[アウディ]]や[[BMW]]に流れており、この試みはあまり成功しなかった。コーティナの輸入自体は、再び300万円台に値上げされたMk5の時代まで継続された。
 
== 参考文献 ==
8,926

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