「藤原定家」の版間の差分

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「藤原定家については古来毀誉さまざまであり、すでに在世中から、「後鳥羽院御口伝」のように骨をさすばかりの痛烈な批判の書があるかと思えば、「[[源家長]]日記」のように一代の詩宗と認めたものもあるという風であった。が死後になると、中世ではほとんど神のごとく崇められ、歌道においては勿論、連歌をはじめ能楽や茶道においても、その芸術論のごとき、神託のように取扱われ、多くの偽書まで出るという有様であった。随ってその筆になるものは断簡零墨も至宝として尊重され、ためにその筆写にかかる本は、いわゆる定家本となって、現在に至るまで多くの古典の伝本中王座を占めて来ているのである。近世に至ると、中世的権威破壊の機運に逢って、定家の勢威も昔日の観は無くなったけれど、それでもまだ人麻呂・貫之と並ぶ大歌人として取扱われることに変わりはなかった。ところが明治に入ると、定家は古典文学の世界における偶像の代表のごとくに見られ、常軌を逸したとおもわれるほどのはげしい破壊排撃を受けた。その作品はとるにたらない技巧過飾のものとしてしりぞけられ、その歌学書はほとんどすべてが偽書として葬られるに至ったのである。(中略)しかし大正の中頃から昭和の初めにかけて、この廃墟の中から一つ一つ真実なものを拾いあげて、定家を築き直そうとする動きが現れて来た。(中略)([[佐佐木信綱]]、[[小島吉雄]]、[[風巻景次郎]]、[[池田亀鑑]]らによって)それぞれ大きな開拓がなされ、その和歌作品に対しても、しだいに正しい見方を回復しようとする努力がなされるようになり、定家の人間像歌人像はようやく復元されようとするに至った。偉大なもの真にすぐれたものは、決して破壊されたままで消えてしまうものではない。定家像の復元に当たって示された多くの学徒のたゆまざる情熱を見て、私は深い感激に打たれざるを得なかった」。
 
戦後から[[平成]]にかけ[[ドナルド・キーン]]や[[三島由紀夫]]、[[小西甚一]]、[[谷山茂]]、[[安田章生]]、[[久保田淳]]、[[塚本邦雄]]や[[丸谷才一]]、[[堀田善衛]]、[[辻邦生]]ら多くの作家や研究者が定家を積極的に評価してきた。
 
中世から近世にかけて定家を称え、また尊崇を示した多くの芸術家・文学者の中には[[正徹]]、[[心敬]]、[[宗祇]]、[[今川貞世]]、[[京極為兼]]、[[世阿弥]]、[[金春禅竹]]、[[細川幽斎]]、[[松永貞徳]]、[[小堀遠州]]、[[霊元天皇]]、[[松尾芭蕉]]、[[本居宣長]]などがいる。