「永寧寺」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''永寧寺'''(えいねいじ)は、[[中国]]・[[北魏]]の[[孝明帝]]の[[516年]]([[熙平]]元年)に、当時の実権者であった[[霊太后]]胡氏([[宣武帝]]の妃)が、当時の都の[[洛陽]]城内に建立した[[寺院|寺]]である
 
== 概要 ==
永寧寺には、高さ100m以上の九重の大塔があったと、「''[[洛陽伽藍記]]''等のなど当時の記録にある。南海を経て[[梁 (南朝)|梁]]より北上して[[北魏]]に渡来した[[菩提達磨]]が、その壮麗なさまを見て、何日も「南無」と唱えていたという塔は、この大塔である。塔の背後には[[太極殿]]のような[[仏殿]]があり、これを取り巻く築地の正面には三重の門を開いていた。永寧寺の[[伽藍]]配置は日本の[[四天王寺]]の祖形にもなっている<ref name="SilkRoad">[[林良一]]『シルクロード』([[時事通信社]])ISBN 4788788144、ISBN 978-4788788145</ref>。
 
[[孝武帝_(北魏)|孝武帝]]の[[534年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]3年)2月に火災に遭い焼失してしまった。近年の発掘調査の成果として、この大塔の基壇部分が出土している。
 
[[献文帝]]が、[[467年]]([[皇興]]元年)に建立した平城(今の[[大同市|大同]], [[山西省]])永寧寺の後を受けたもの。[[476年]]([[承明]]元年)8月、[[孝文帝]]は、先帝の追善供養のために、この寺で100人余りの僧を得度し、また自らも剃髪し、僧服を施与したとある
[[476年]]([[承明]]元年)8月、[[孝文帝]]は、先帝の追善供養のために、この寺で100人余りの僧を得度し、また自らも剃髪し、僧服を施与したとある。
 
== 参考文献 ==
13 ⟶ 12行目:
* [[奈良国立文化財研究所]]編『北魏洛陽永寧寺 中国社会科学院考古研究所発掘報告』(奈良国立文化財研究所、1998年)
 
== 脚注 ==
<references />
 
{{Buddhism-stub}}
{{DEFAULTSORT:えいねいし}}
[[Category:中国の寺]]
[[Category:魏晋中国の南北朝時代]]
[[Category:洛陽の歴史]]
[[Category:現存しない中国の建築物]]
{{Buddhism-stub}}
 
[[en:Yongning Pagoda]]