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また、京都府の[[丹後半島]]にある伊根町も、徐福上陸の地と伝えられ、町内の[[新井崎神社]]付近は[[菖蒲]]や黒節の[[よもぎ]]などの薬草が自生していて、徐福はこの地で不老不死の妙薬を探し当てたとされる。先進的な文化や技術を習得していた徐福は村人に慕われたので、当地に上陸後、故郷に帰ることなく村に滞在したといわれ、近隣で[[麻疹]]が流行して多くの村人が亡くなった際に、徐福の神を新井崎神社に祀ったところ救われたと伝えられる。現在も徐福が祀られている新井崎神社に伝わる古文書『[[新大明神口碑記]]』に、徐福の事が記されている。<ref>丹後建国1300年記念事業実行委員会『丹後王国ものがたり 丹後は日本のふるさと』2013年、50頁</ref>。
 
<!--徐福が茶を運んだとされる中国茶は、別名埼玉茶であるが、自生種と言われ商業には適さず畑のあぜ道に境界として留めている。鎌倉に上陸した栄西上人が運び込んだのは抹茶用の宇治茶の品種である。徐福が持ち込んだ中国茶と抹茶用の茶の花粉が受粉して静岡の藪北種が誕生して煎茶の品種になったと考えられる。中国の御茶の原木(プーアル茶やウーロン茶そして紅茶の葉は中国茶の品種である)と埼玉の中国茶とDNA鑑定の照合をすれば、徐福が持ち込んだことが証明される。
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徐福が茶を運んだとされる中国茶は、別名埼玉茶であるが、自生種と言われ商業には適さず畑のあぜ道に境界として留めている。鎌倉に上陸した栄西上人が運び込んだのは抹茶用の宇治茶の品種である。徐福が持ち込んだ中国茶と抹茶用の茶の花粉が受粉して静岡の藪北種が誕生して煎茶の品種になったと考えられる。中国の御茶の原木(プーアル茶やウーロン茶そして紅茶の葉は中国茶の品種である)と埼玉の中国茶とDNA鑑定の照合をすれば、徐福が持ち込んだことが証明される。
 
静岡と埼玉は絹の織物が地場産業であるが、徐福は養蚕の技術を伝来させている。天女のような羽衣が駿河の浜で銀の柄杓で水を汲んでいたと竹取物語に記述があるが、絹の透けた着物を織ることができたからである。徐福の一族の女官の着物姿のことを指していると言えよう。
 
-->八丈島に童男、童女を五百人づつ別々に乗船させてきて、離れた島に童男を着けたと郷土史資料館に記述がある。<!--男の島までの距離はおよそ1000mである。泳いで渡れる距離であった。両島の北西に船を着床させられる岩棚が唯一存在する。陰暦の七夕の日に南風が吹き、その風に乗れば相模湾まで航行可能である。王子と姫を幽閉させさせて三年後に秦始皇帝は暗殺され、八丈島は見捨てられたのである。牢屋番の宦官が死ぬと、伊豆七島づたいに本島に移り住んだのである。
 
当時の造船技術は進んでいた、長さ120m幅20mである。木材は鉄木という堅木を使う。亜熱帯のフィリッピンに自生する船舶用の木材である。比重は重く水に浮くことはない。腐りにくく船のキール材に使われる。また当時の船は腐敗し存在しないが、徐福が最初の航海で渤海航路を使って帰路に着いた証拠として、アムール川の河川敷きから数百メートル離れたところに長さ120m幅20mの木造船の遺構が衛星写真で確認ができる。地形が隆起したために腐敗を免れたのである。
 
逗子市や葉山町に残る縄文時代末期の陶器や古墳の埋葬方式から観て、徐福たちの居住跡であると推理して間違いはないであろう。遺構から漁具や水深測量の石球が出土している。中国の徐福村の出土品と形状が酷似している。横須賀市郷土資料館に保存されている。逗子市小坪から古代帆船の石碇が出土している。逗子市教育委員会管理。-->
 
徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(不老不死に由来か?)」という植物が自生する。フロフキは、[[カンアオイ]](寒葵)の方言名で地元では俗に「不老不死」が訛ってフロフキになった等ともいい、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。
 
徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(不老不死に由来か?)」という植物が自生する。フロフキは、[[カンアオイ]](寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。
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徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須からは、2200年前の中国の硬貨である[[半両銭]]が発見されている。[[波田須駅]]1.5kmのところに[[徐福ノ宮]]があり、徐福が持参したと伝わる[[すり鉢]]をご神体としている。