「陰陽師」の版間の差分

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平安時代中頃([[10世紀]])に入って、後述の[[賀茂氏|賀茂家]]と[[阿倍氏|安倍家]]の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが[[摂政]]や[[関白]]を始めとする朝廷中枢に重用されたため、両家はその実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され[[従四位下]]格にまで昇進するようになった。特に安倍家は平安時代後期([[11世紀]])には[[従四位上]]格にまで取り立てられるようになり、[[室町時代]]には、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の庇護を足がかりに常に[[公卿]]([[三位]]以上)に任ぜられる[[堂上家|堂上家(半家)]]の家格にまでなり[[土御門家#土御門家(安倍氏)|土御門家]]を名乗るようになったほか、その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、[[近世]]において[[江戸幕府]]から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、[[明治時代]]初頭まで隆盛を誇った。
 
=== 平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師のカリスマ神格化 ===
[[延暦]]4年([[785年]])の[[藤原種継]]暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために[[怨霊]]におびえ続けた[[桓武天皇]]による[[長岡京]]から[[平安京]]への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊を鎮める[[御霊信仰]]が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な[[星辰]]信仰や[[霊符]]呪術のような[[道教]]色の強い呪術が注目されていった。[[讖緯説|讖緯説(讖緯思想)]]・道教・仏教特に[[密教]]的な要素を併せ持った[[呪禁道]]を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた[[典薬寮]]の[[呪禁博士]]や[[呪禁師]]らが、陰陽家であった[[藤原鎌足|中臣(藤原)鎌足]]の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教または仏教(特に奈良・平安時代の交([[8世紀]]末)に伝わった密教)の呪法や、これにともなって伝来した[[宿曜道]]とよばれる[[占星術]]から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。例えば、陰陽道の施術において多く見られるようになった[[方違え]]・[[物忌]]などの呪術や[[泰山府君祭]]などの祭祀は道教に由来するものであり、[[散米]]・[[祝詞]]・{{要出典範囲|date=2011年9月|[[禹歩]](反閇)などは古神道に由来するものである}}。更に、[[藤原北家|北家藤原氏]]が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や[[誹謗中傷]]に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。