「袁世凱」の版間の差分

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|呼称=皇帝
|画像=[[ファイル:Yuan shikai.jpg|220px]]
|説明=袁世凱洪憲帝(1915年)
|王朝=中華帝国
|在位期間=[[1915年]][[12月12日]] - [[1916年]][[3月22日]]
| 英語名=
}}
'''袁 世凱'''(えん せいがい、{{ピン音|Yuán Shìkǎi}} ユエン・シーカイ [[1859年]][[9月16日]]([[咸豊]]9年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[1916年]][[6月6日]])は、中国[[清]]末[[中華民国|民初]]期の[[軍人]]・[[政治家]]。[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]初代[[皇帝]]。[[北洋軍閥]]の総帥。大清帝国第2代[[内閣総理大臣 (清朝)|内閣総理大臣]]を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代[[中華民国大総統]]に就任。一時期[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]][[皇帝]]として即位し、その際に使用された[[元号]]より'''洪憲皇帝'''と呼ばれることもある。[[字]]は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。
 
== 人物 ==
こうした袁世凱の弱腰(と映った)な姿勢に、自治の姿勢を強めつつあった地方勢力が再び不穏な動きを見せていた。このことが必ずしも理由ではないが、地方から中央への税の流れがとどこおりつつあり、また北京など大都市では袁世凱の専制を批判する動きが学生を中心に広がりつつあった。学生の多くは、主に日本から[[自由民権運動|自由民権思想]]・[[社会主義]]などの新しい思想を持ち帰り、袁世凱の施政をすでに時代遅れのものと考えていた。
 
=== 皇帝即位登基退位崩御 ===
[[File:Picture of Emperor Yuan Shih-kai.jpg|thumb|right|200px|即位式の袁世凱洪憲皇帝]]
こうした不安定な状況の中、[[1915年]]に袁世凱は側近の[[楊度]]に皇帝即位運動をさせ、政を復活させた。翌[[1916年]]より年号を[[洪憲]]と定め、皇帝に即位し国号を「'''[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]'''」に改めた。こうした袁世凱の行動は、自らの野望を果たすためという面もあった一方で<ref>彼の皇帝即位への願望を示すエピソードはふんだんに残されているという。</ref>、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な[[立憲君主制]]が必要との考えであったという見方もある。
 
しかし、結果はまったく予想と反するものだった。北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻した。彼の足元の北洋軍閥の諸将までもが公然と反発し、袁世凱を批判した。さらには当初傍観していた日本政府が、皇帝即位の受けの悪さを見て取るや、厳しく非難を始めた。結局洪憲元年(1916年)3月にしぶしぶ退位した。しかし一度失墜した権威は戻らず、同年6月に失意のうちに病死した。死因は[[尿毒症]]と伝えられる。
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! {{CHN1912}}([[北京政府]])
{{先代次代|[[中華民国大総統|大総統]]|[[1916年]]|政取消により復職|[[黎元洪]]}}
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! [[ファイル:Flag of the Empire of China 1915-1916.svg|25px]] [[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]
{{先代次代|[[中国帝王一覧#中華民国(中華帝国)|皇帝]]|[[1915年]] - [[1916年]]|共和制から移行|政廃止}}
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! {{CHN1912}}([[北京政府]])
{{先代次代|[[中華民国大総統|大総統]]|[[1913年]] - [[1915年]]|設置|政移行}}
{{先代次代|[[中華民国大総統|臨時大総統]]|[[1912年]] - [[1913年]]|[[孫文]]|大総統へ移行}}
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