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[[680年]]、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて死去。唐より使者が遣わされ弔意を表される。
 
[[683年]]、現四川省の柘州・翼州で略奪を働いて迎撃に出た唐軍を打ち破り、また隴右に転戦して藩鎮の河源軍を破っている。翌[[684年]]にも吐谷渾の騒乱を収拾するなど、ガル・ティンリンの威勢は東部に於いて王に警戒<ref>敦煌からティドゥ・ソンツェン王が自らの高貴さとガル・ティンリンの思い上がりを読んだ一文が見つかっている</ref>される程となった。
 
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[[755年]]に唐で[[安史の乱]]が起こると唐朝廷へ支援を申し出る使者に内情を探らせると共に連年唐の領土で略奪を繰り返していたが、[[761年]]にティソン・デツェン王は外戚の専横を抑制して親政を始めると共に仏教禁令を解き、今度はインドから高僧を招き、[[四川省|四川]]から[[北宗]]禅僧の{{仮リンク|金和尚|en|Kim Ho-shang}}を招聘。後にこの両派は対立し、[[サムイェー寺の宗論]]を起こす。[[763年]]本格的に唐領へ軍を進めると大した抵抗を受けること無く唐西部の河西、隴右地区(現:[[青海省]]東部および[[甘粛省]])の6州の降伏を受け占領した。[[763年]]、唐の首都長安へ兵を進めると、ここでも戦闘を交える事無く長安を占領した。[[763年]]10月、唐の[[長安]]を占領し{{仮リンク|金城公主|zh|金城公主}}の甥・{{仮リンク|李承宏|zh|李承宏|en|Li Chenghong}}を帝位に据えるが、陣中に疫病が流行り唐が反撃に出ると、半月後に長安から撤退した(この戦役を記念するために「[[雪の外碑]]」が建てられる)。これ以降、吐蕃は西域で唐に対して優勢を保った。
 
[[774年]]、王はインドから高僧[[シャーンタラクシタ]]と[[パドマサンバヴァ]]を招いて仏教を復興させた。[[779年]]、吐蕃と属国の[[南詔]]の{{仮リンク|異牟尋|zh|異牟尋|vi|Mông Dị Mâu Tầm}}(在位:[[779年]] - [[808年]])王は20万の大軍をもって[[四川省|四川]]の[[成都]]に侵攻したが、統制を回復していた唐軍に撃退された。同年、修行寺院である[[サムイェー寺]]が落成し、経典解説や説法などの活動が開始され多くの仏典が翻訳された。王は、等級に応じて僧侶に食物や生活用品を支給、さらに王子,后妃,臣民の前で永遠に仏法を行うことを誓約し、王子たちには仏法を学ぶことが義務づけられ、仏教が厚く保護された。
 
[[781年]]から長年にわたる[[沙州]]([[敦煌市|敦煌]])包囲の末、[[786年]]に占領に成功する。その地の高僧[[摩訶衍]]を吐蕃に招聘した。[[787年]]に[[シャーンタラクシタ]]が死去すると、インド仏教系の僧と中国系仏教の[[禅宗]]との関係が悪化。禅宗を禁教にさせることに成功した。[[790年]]、ジュンガル盆地の白突厥やカルルクと南シベリアのキルギス部を誘って、唐・ウイグル連合軍の居る[[北庭都護府]]を占拠すると、ウイグル・唐連合軍との50年に渡る戦争に突入。[[791年]]、摩訶衍が皇后(没盧氏)を出家させると、[[792年]]に摩訶衍はティソン・デツェン王の勅命によって、チベットの地での布教を許可された。また、禅の信徒の抵抗で[[794年]]に禁教も解除された。これに危機感を募らせたインド系仏教はインドから高僧[[カマラシーラ]]を招聘した。王は[[摩訶衍]]とカマラシーラに命じて、サムイェー寺で“悟り”について法論を闘わせた([[サムイェー寺の宗論]]、[[792年]] - [[794年]])。その結果、敗れた中国系仏教の[[禅宗]]頓門派の教えが禁じられた。[[797年]]頃、摩訶衍は敦煌へ放逐された。