「田尻鑑種」の版間の差分

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更にその了哲を介して鑑種との和睦を行うと鑑種はこれに応じ、12月に田尻一族が龍造寺政家に起請文を出し、鷹尾城を明け渡し[[佐嘉郡]]に移住する一方、新地200町を与えられることを条件に和談が成立、以後は龍造寺家臣に復帰した<ref>『北肥戦誌』の記述。</ref>。
 
沖田畷の戦いで力を落とした龍造寺にけ込み大友が筑後に兵を差し向けた際には、龍造寺軍の先方として筑後に進撃し、元の居城である鷹尾城を奪還した。
ただしこの後にも島津氏へ対し従臣の手紙を送る等、島津寄りの姿勢を見せている。龍造寺側も度重なる鑑種の裏切りを警戒して多くの起請文を発行していた。
だが龍造寺と島津が和議すると龍造寺家臣でありながら、島津と通じていた鑑種の立場は微妙になる。