「王羲之」の版間の差分

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* <span id="遊目帖">遊目帖(ゆうもくじょう)</span><span id="游目帖"></span>
[[File:Yumokucho.jpg|thumb|遊目帖]]
: 『游目帖』とも書く<ref>筆跡中、「遊目」と草書で書かれている。</ref>。本帖は、羲之が[[益州]][[刺史]]・周撫に宛てた尺牘11行で、蜀郡への憧れを寄せている。古来『[[#十七帖|十七帖]]』の中の1帖『蜀都帖』(しょくとじょう)の[[双鉤填墨|双鉤塡墨]]本といわれ、良く知られた1帖であるが、伝承の正しい、つまり羲之の書を忠実に伝えている『十七帖』の刻本と比べると[[書道用語一覧#結体|結体]]や[[筆法]]に相違があり、概ね本帖の方が結体が悪い。ただし伝来どおり双鉤墨の痕跡があり、また唐の太宗のときの[[貞観 (唐)|貞観]]の小印が押されているという点から、唐人が[[臨書]]したものをもとにしての双鉤墨本であろうと考えられている。が、『十七帖』との先後を決定することは難しい。本帖は唐・宋代に[[宮廷]][[コレクション]]に蔵され、[[1747年]]に清の[[宮殿|内府]]に入り『[[三希堂法帖]]』に刻入された。その後、[[恭親王]]に帰し、[[1900年]]、[[義和団の乱]]の際に流出して、明治時代末期に日本に伝来し、大正2年([[1913年]])4月、[[京都府立図書館]]で一般公開された<ref>書論研究会 P.57</ref>。[[昭和]]20年([[1945年]])、所蔵者だった[[広島市]]の[[安達万蔵]]が[[原子爆弾|原爆]]で被災し、以降、行方不明となり焼失したものとされている。その[[影印本]]が現存する<ref>内藤乾吉 PP..169-170</ref><ref>中西慶爾 PP..479-480、P.929</ref><ref>飯島春敬 P.61</ref><ref>比田井南谷 P.118</ref>。
 
* <span id="瞻近帖">瞻近帖(せんきんじょう)</span>