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== 略歴 ==
王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の[[王導]]や[[王敦]]らから一族期待の若者として将来を嘱望されていた<ref>しかし羲之自身は[[武人]]を志しており、中央政界での出世は、あまり望まなかったという。</ref>。東晋の有力者である[[チ鑒|郗鑒]]の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・[[ユ亮|庾亮]]からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後も羲之は朝廷の高官から高く評価され、たびたび中央の要職に任命されたが、羲之はそのたびに就任を固辞した。友人の揚州[[刺史]]・[[殷浩]]による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・[[会稽郡|会稽]][[内史]](会稽郡の長官、現在の[[浙江省]][[紹興市]]付近)となった。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に[[詩]]、[[酒]]、[[音楽]]にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の[[謝安]]や[[孫綽 (東晋)|孫綽]]・[[許詢]]・[[支遁]]ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
[[354年]]、かねてより羲之と不仲であった[[王述]](琅邪王氏と遠縁筋の[[太原王氏]]出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる<ref>『[[晋書]]』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『[[世説新語]]』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。</ref>。王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌[[355年]]、[[病気]]を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も
[[衛恒]]([[衛カン|衛瓘]]の子)の族弟である[[衛展]]の娘で、汝陰郡の太守李矩の妻となった[[中国の書家一覧#衛鑠|衛夫人]]から、[[後漢]]の[[蔡ヨウ|蔡邕]]、[[魏 (三国)|魏]]の[[鍾ヨウ|鍾繇]]の書法を伝授され、その法を秘中の秘とした。7歳の時から衛夫人のもとで書を学び、12歳の時に父の枕中の秘書を盗み見、その技量が進んだ。さらに各地を巡って古書を見、寝食を忘れて精進し、楷書・行書・草書の各書体について一家をなした。
== 真筆 ==
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* <span id="孝女曹娥碑">孝女曹娥碑(こうじょそうがひ、『曹娥碑』とも)</span> - [[升平]]2年(358年)
: 小楷の[[法帖]]。曹娥碑の建碑は[[後漢]]であり、後に王羲之がその碑を[[臨書]]したといわれ、末尾に「昇平(升平)二年」(358年)の年紀が見える。しかし、本帖は[[南宋]]になって初めて文献に出たもので、王羲之の書である確証はない。現存するのは、六朝人の手によるものと推測される臨模本(絹本、遼寧省博物館所蔵)と『[[集帖#筠清館帖|筠清館帖]]』・『[[集帖#群玉堂帖|群玉堂帖]]』・『[[集帖#停雲館帖|停雲館帖]]』・『[[三希堂法帖]]』などに刻入された拓本がある。建碑の由来は、後漢の上虞(
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{{main|蘭亭序}}
* <span id="集王聖教序">集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)</span>
: 『'''集字聖教序'''』ともいう。[[太宗 (唐)|唐の太宗]]が[[玄奘三蔵]]の業績を称えて撰述したもので、これに[[高宗 (唐)|高宗]]の序記、玄奘の訳した[[般若心経]]を加え、弘福寺の沙門<ref>沙門(しゃもん)とは、[[僧]]のこと。</ref>[[懐仁 (僧)|懐仁]](え
* <span id="興福寺断碑">興福寺断碑(こうふくじだんぴ)</span>
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* <span id="喪乱帖">喪乱帖(そうらんじょう)</span>
: 王羲之の手紙の断片を集めたもので、『喪乱帖』8行、『二謝帖』5行(1行ずつの断片を集めたもの)、『得示帖』4行の計17行が一幅になっている<ref>藤原鶴来 P.64</ref>。書簡の最初の行に「喪乱」の句があるのでこのように呼ばれる。縦に簾目(すだれめ)のある白麻(はくま)紙に、[[双鉤填墨|双鉤塡墨]]で模したものであるが、肉筆と見違えるほど立派である。東京・[[三の丸尚蔵館]]蔵。右端の紙縫に「延暦勅定」の印3顆<ref>顆(か)は印鑑を数える単位。</ref>が押捺されているところから、[[桓武天皇]]の[[御府]]に既に存在していたことが分かる。
* <span id="孔侍中帖">孔侍中帖(こうじちゅうじょう)</span>
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* <span id="遊目帖">遊目帖(ゆうもくじょう)</span><span id="游目帖"></span>
[[File:Yumokucho.jpg|thumb|遊目帖]]
: 『游目帖』とも書く<ref>筆跡中、「遊目」と草書で書かれている。</ref>。本帖は、羲之が[[益州]][[刺史]]・周撫に宛てた尺牘11行で、蜀郡への憧れを寄せている。古来『[[#十七帖|十七帖]]』の中の1帖『蜀都帖』(しょくとじょう)の
* <span id="瞻近帖">瞻近帖(せんきんじょう)</span>
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* <span id="二謝帖">二謝帖(にしゃじょう、『二謝書帖』とも)</span>
: 内容は、親しい謝氏の誰かが亡くなった悲しみを綴った尺牘で、草書で10行、77文字ある。その没した者は、[[謝尚]](しゃしょう、308年 - 357年、[[:zh:
* <span id="秋月帖">秋月帖(しゅうげつじょう、『七月帖』とも)</span>
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