「小河一敏」の版間の差分
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== 経歴 ==
[[岡藩]]士の子として、[[豊後国]][[竹田市|竹田]]に生まれた。[[朱子学]]・[[陽明学]]を学び、また詩歌や文章も善くし、早くから尊皇攘夷の志をいだいた<ref name="baku_125">[[#幕末|『ビジュアル幕末1000人』「小河一敏」(2009)p.125]]</ref>。[[嘉永]]6年([[1853年]])の[[マシュー・ペリー]]による[[黒船来航]]を機に[[九州地方]]北部の各地を遊説して[[真木保臣|真木和泉]]らと交わった<ref name="baku_125"/>。藩論が尊王派と佐幕派に分かれ対立すると、尊王派の指導者として活動し、[[薩摩藩]]と結んで倒幕を画策して挙兵を図るが[[1862年]]([[文久]]2年)の[[寺田屋事件]]で挫折した<ref name="baku_125"/><ref group="注釈">文久2年、小河とともに京都で活動した岡藩出身者には、[[平田鐵胤]]門下の[[田近陽一郎]]がいる。[[#幕末|『ビジュアル幕末1000人』「田近陽一郎」(2009)p.125]]</ref>。帰藩後幽閉され、一度は許されたものの、[[1865年]]([[慶応]]元年)に幕府をはばかった藩主[[中川久昭]]により再び幽閉された。しかし、[[京都]]や[[摂津国|摂津]]にあって[[岩倉具視]]らに時局を説くこともあったという<ref name="baku_125"/>。
新政府
その後、宮内大丞に任ぜられたが、翌[[1871年]](明治4年)に免官となった。[[1875年]](明治8年)より修史局、修史局廃止後は修史館で史料の編纂にあたった。[[1877年]](明治10年)に[[宮内省]]権少書記官に、[[1881年]](明治14年)には宮内省御用掛に任ぜられた。
墓所は[[豊島区]][[駒込]]の[[染井霊園]]。
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