「石原裕次郎」の版間の差分

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* 父が亡くなった頃にショックから自暴自棄になった裕次郎は、家から金目の物を持ち出しては換金し、その金で銀座などへ繰り出す遊行三昧の日々を送り、兄・[[石原慎太郎]]から心配された。そんな頃に兄は[[水の江瀧子]]より『太陽の季節』の映画化を促されたため、「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…弟を出してくれるんなら」という条件を提示した。瀧子はその条件を呑み、裕次郎は同作品で俳優デビューし、脇役ではあったが主演格に匹敵する[[ダイナミック]]な存在感で注目されることとなる。裕次郎本人は「太陽の季節」への出演は至って遊び感覚で、迎えの車に乗り初めて[[日活撮影所]]へ降り立った時は素肌に[[ヨット・パーカー]]を羽織り、[[水着|海水パンツ]]に[[ビーチサンダル|ゴム草履]]履きといったいでたちに、その場に居合わせた[[宍戸錠]]と[[小林旭]]は「何だ!ありゃあ?!?」と仰天したという(テレビでの小林旭談{{出典無効|date=2016年10月}})。
* [[1956年]]3月28日、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが日活での初仕事であった<ref>近代映画 近代映画社 1970年2月号 146頁。</ref>。
* 『太陽の季節』のカメラマンを務めた[[伊佐山三郎]]は水の江瀧子を呼びエキストラとしてファインダーに映っていた裕次郎を「[[[[坂妻|坂東妻三郎]]]]がいる」と絶賛。急遽端役が与えられ映画デビューとなった。
* 『狂った果実』が映画化されることとなり、シナリオを書き上げるため有楽町の日活ホテルに缶詰状態だった兄は左手で書くのは早かった。しかし読み難かったため裕次郎が「俺が清書しなきゃあ誰も読めない!」と付きっ切りで清書しながらも自身が演ずる役のセリフを少なくするよう慎太郎に催促するという具合であった。だが兄弟で一つの仕事を成し終えるその姿に世間は「太陽族の美しい兄弟愛」と褒め称えた。