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享禄元年(1528年)、[[尾張国]][[知多郡]]の豪族・[[水野忠政]]とその妻・[[華陽院]](於富)の間に、忠政の居城[[緒川城]]([[愛知県]]知多郡[[東浦町]]緒川)で生まれた([[青山政信]]の娘で忠政の養女であったという説あり)。
 
父・忠政は緒川からほど近い[[三河国]]にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた[[松平清康]]の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせ(於富の方の子達の出生年からこれを否定する説もある)、[[松平氏]]とさらに友好関係を深めるため、[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年12月26日(西暦[[1543年]][[1月31日]])、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を岡崎城で出産した{{Sfn|中村|1965|p=55}}。
 
天文12年2月3日、三河国[[妙心寺]]に薬師如来の銅像を奉納して竹千代の長生きを祈念した{{Sfn|中村|1965|p=58}}。