「椎の木屋敷」の版間の差分

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[[刈谷城]]本丸(現在の[[亀城公園 (刈谷市)|亀城公園]])から真東に500メートルほど、磧川(せきのかわ、現在は[[暗渠]])を超えたあたりは周辺より5メートルほど高くなっている。現在は[[刈谷市立亀城小学校]]と[[正覚寺 (刈谷市)|正覚寺]]に挟まれたこの高台にはかつて[[シイ]]の木が生い茂っていたことから椎の木藪とも呼ばれ、この付近一帯の土地を椎の木屋敷と呼ぶ。ここにはかつて文字通りの屋敷建築物も存在した。<ref name=cityofficial>[https://www.city.kariya.lg.jp/kankobunka/rekishibunka/rekishi/siinokiyashikiato.html 椎の木屋敷] 刈谷市</ref><ref name=cityofficialpdf>[https://www.city.kariya.lg.jp/kankobunka/rekishibunka/rekishi/siinokiyashikiato.files/siinoki.pdf 於大の方由緒の地 椎の木屋敷跡] 刈谷市</ref><ref name=kankokyokai>[http://www.kariya-guide.com/sightseeing/000003.html 於大の方由緒の地 椎の木屋敷跡] 刈谷市観光協会</ref>
 
[[水野忠政]]の娘[[於大の方]]は未通女だった天文10年(1541年)に[[松平広忠]]に嫁ぎ、数え年17歳の天文11年(1543年)に竹千代(後の[[徳川家康]])を出産したが、天文14年(1544年)に実家の水野家が松平家と離反したため松平広忠から離縁された。この際、[[岡崎城]]から刈谷の[[水野家]]に戻ってこの屋敷に住んだとされる。江戸時代には屋敷の出入口に鍵が掛けられ、庶民は立ち入ることができなかった。敷地の中央部には数基の[[五輪塔]]があったとされる。於大は天文17年(1547年)に[[阿久比町|阿久比]]の[[久松俊勝]]と再婚し、椎の木屋敷を離れて[[坂部城跡|坂部城]]に移った。<ref name=cityofficial/><ref name=cityofficialpdf/><ref name=kankokyokai/><ref>椎の木屋敷跡現地解説板</ref>
 
[[大政奉還]]後の1871年(明治4年)には井野氏がこの土地の所有者となり、敷地の大部分を[[庭園]]とした上で新たに[[庵]]を設けた。やがてこの土地は宅地化されたが、[[刈谷市]]は1980年(昭和55年)の市制30周年記念事業として土地の一部を取得し、1997年(平成9年)3月13日に刈谷市指定[[文化財]](史跡)に指定した後、1999年(平成11年)には市民に開放する史跡として整備した。於大の座像や東屋のある庭園であり、[[政略結婚]]の末に捨てられた恨みからか於大の目線は岡崎の方角に向けられている。<ref name=cityofficial/><ref name=cityofficialpdf/><ref name=kankokyokai/>