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[[Image:Sanjuanbautista.jpg|thumb|240px|サン・ファン・バウティスタ号(復元)]]
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'''サン・ファン・バウティスタ号'''({{lang-es-short|San Juan Bautista}}<ref group="†">{{IPA-es|saŋ xwan bauˈtista}} '''サ'''ン・フ'''ワ'''ン・バウ'''ティー'''スタ</ref>)は、[[仙台藩]]初代藩主・[[伊達政宗]]が[[江戸時代]]初頭に同藩[[陸奥国]]領内で建造した[[ガレオン船]]。仙台領内に滞在していた[[スペイン人]]提督[[セバスティアン・ビスカイノ]]に協力させて建造した約500[[トン]]級で最初[[日本製]]西洋型[[軍船]]である。
 
船名は「[[洗礼者ヨハネ|洗礼者・聖ヨハネ]]」の意で、元は「伊達丸」と呼ばれていたとの説もある。
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== 概要 ==
日本での[[ガレオン船]]建造は1807年に[[徳川家康]]の名受けた[[ウィリアム・アダムス]]jにより[[サン・ブエナ・ベントゥーラ]](120t)が建造されていた。これは、[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]][[ロドリゴ・デ・ビベロ|ドン・ロドリゴ]]の一行が、[[マニラ]]から[[アカプルコ]]へ向けての航行中に遭遇した[[台風]]により船が破損したため、アカプルコへ到達できる西洋船が必要だったためである。サン・ブエナ・ベントゥーラには[[田中勝介]]ら日本人22人が同乗し、アメリカ大陸へ渡った初めての日本人となった。帰国したドン・ロドリゴは、[[セバスティアン・ビスカイノ]]を返礼の大使として日本へ派遣、ビスカイノは[[金銀島探検]]のため家康の許可を得て日本沿岸の測量を行うこととなった。ビスカイノは測量を終え帰国する最中に乗船していた「サンフランシスコ号」が大破したため、新船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが外交政策の変更もあって断られていた。
[[慶長]]19年([[1614年]])、[[徳川家康]]の許可、すなわち“外交権”を得た伊達政宗が、[[仙台藩家臣|仙台藩士]]・[[支倉常長]]を外交使節に任命し、支倉一行が[[スペイン]]との貿易交渉のため[[太平洋]]を横断。その際に乗船した巨大帆船がサン・ファン・バウティスタ号である。スペイン風[[ガレオン船]]([[南蛮船]])の様式を取っている。伊達政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての[[倒幕]]があったとの説もある<ref group="†">大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。 政宗がスペインや[[大久保長安]]と結んで倒幕を図っていたという説は明治時代から存在したが(箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年や、阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年)、これには批判もある(小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、 239-242頁)。</ref>。『伊達貞山治家記録』によれば、政宗船の建造に関して将軍[[徳川秀忠|秀忠]]付きの船手頭[[向井忠勝]]から御内衆や公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では忠勝から家人に日本商品二、三百梱が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられており、また将軍秀忠が政宗船の僚船として建造させた船が江戸湾口で座礁した事実、さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ船頭が添えられた(『古談筆乗』)などの事実をみれば、政宗の遣欧船は幕府の知るところであったとする意見もある<ref>鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針―』新人物往来社 2010年 150頁以下</ref>。<br />
 
[[慶長]]19年([[1614年]])、[[徳川家康]]の許可、すなわち“外交権”を得た伊達政宗が、[[仙台藩家臣|仙台藩士]]・[[支倉常長]]を外交使節に任命し、支倉一行が[[スペイン]]との貿易交渉のため[[太平洋]]を横断する計画を立てた。また奥州沿岸の測量前に伊達政宗に謁見していたビスカイノ一行もこれに同乗することとなった。
 
この計画のために建造されたのがサン・ファン・バウティスタ号である。サン・ブエナ・ベントゥーラと同じくスペイン風[[ガレオン船]]([[南蛮船]])の様式を取っているが、排水量は500tとより大型化し、
 
[[慶長]]19年([[1614年]])、[[徳川家康]]の許可、すなわち“外交権”を得た伊達政宗が、[[仙台藩家臣|仙台藩士]]・[[支倉常長]]を外交使節に任命し、支倉一行が[[スペイン]]との貿易交渉のため[[太平洋]]を横断。その際に乗船した巨大帆船がサン・ファン・バウティスタ号である。スペイン風[[ガレオン船]]([[南蛮船]])の様式を取っている。伊達政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての[[倒幕]]があったとの説もある<ref group="†">大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。 政宗がスペインや[[大久保長安]]と結んで倒幕を図っていたという説は明治時代から存在したが(箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年や、阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年)、これには批判もある(小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、 239-242頁)。</ref>。『伊達貞山治家記録』によれば、政宗船の建造に関して将軍[[徳川秀忠|秀忠]]付きの船手頭[[向井忠勝]]から御内衆や公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では忠勝から家人に日本商品二、三百梱が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられており、また将軍秀忠が政宗船の僚船として建造させた船が江戸湾口で座礁した事実、さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ船頭が添えられた(『古談筆乗』)などの事実をみれば、政宗の遣欧船は幕府の知るところであったとする意見もある<ref>鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針―』新人物往来社 2010年 150頁以下</ref>。<br />
 
伊達政宗はこの[[慶長遣欧使節]]において、その正使にはビスカイノ提督ではなく、政宗と親しい[[フランシスコ会]]の[[宣教師]][[ルイス・ソテロ]]を任命した。ルイス・ソテロ、支倉常長、ビスカイノ提督らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、「日本初の対ヨーロッパ外交交渉」を行う旅に出た。