「サン・ファン・バウティスタ号」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
S-alfeyev (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
S-alfeyev (会話 | 投稿記録)
12行目:
[[慶長]]19年([[1614年]])、[[徳川家康]]の許可、すなわち“外交権”を得た伊達政宗が、[[仙台藩家臣|仙台藩士]]・[[支倉常長]]を外交使節に任命し、支倉一行が[[スペイン]]との貿易交渉のため[[太平洋]]を横断する計画を立てた。また奥州沿岸の測量前に伊達政宗に謁見していたビスカイノ一行もこれに同乗することとなった。
 
この計画のために建造されたのがサン・ファン・バウティスタ号である。サン・ブエナ・ベントゥーラと同じくスペイン風[[ガレオン船]]([[南蛮船]])の様式を取っているが、排水量は500tとより大型化している。
 
伊達政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての[[倒幕]]があったとの説もある<ref group="†">大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。 政宗がスペインや[[大久保長安]]と結んで倒幕を図っていたという説は明治時代から存在したが(箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年や、阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年)、これには批判もある(小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、 239-242頁)。</ref>。『伊達貞山治家記録』によれば、政宗船の建造に関して将軍[[徳川秀忠|秀忠]]付きの船手頭[[向井忠勝]]から御内衆や公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では忠勝から家人に日本商品二、三百梱が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられており、また将軍秀忠が政宗船の僚船として建造させた船が江戸湾口で座礁した事実、さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ船頭が添えられた(『古談筆乗』)などの事実をみれば、政宗の遣欧船は幕府の知るところであったとする意見もある<ref>鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針―』新人物往来社 2010年 150頁以下</ref>。<br />