「剣翔桃太郎」の版間の差分
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葛飾区立南奥戸小学校2年生の時に祖父から「優勝したら小遣いをやる」と言われて小遣い稼ぎのつもりでわんぱく相撲の大会に参加するようになると、葛飾区内では無敵の強さを誇るようになった。4年生から参加できる都大会への参加が決まるとその優勝賞金は倍に増やされたが、結果は1回戦負け。この時に相撲に負けたこと自体を悔しく感じたことで本格的に相撲を始める事を決意し、地元の葛飾白鳥相撲教室で稽古を始めるようになった。<ref name="BBMsumo201504p104">[[ベースボール・マガジン社]]刊 『[[相撲 (雑誌)|相撲]]』 2015年4月号(春場所総決算号) 104頁</ref>5年時にはわんぱく相撲全国大会ベスト8の実績を残した。同学年の[[千代嵐慶喜|千代嵐]]とは出身地が近いことからアマチュア時代は何度も顔が合ったという<ref name="BBMsumo201410p068">[[ベースボール・マガジン社]]刊 『[[相撲 (雑誌)|相撲]]』 2014年10月号(秋場所総決算号) 68頁</ref>。同郷の[[千代大龍秀政|千代大龍]]が小学6年生で相撲を始めた当初は自身が稽古に協力したと伝わるが、自身は千代大龍より3学年下なので千代大龍が中学に進学してからは面識が無くなったという。同郷の千代大龍と同じく葛飾区立大道中学校に進学し、3年時には全国都道府県別中学選手権3位に輝いた。<ref>[[ベースボール・マガジン社]]刊 『[[相撲 (雑誌)|相撲]]』 2014年2月号(初場所総決算号) 114頁</ref>[[英乃海拓也|英乃海]]の後を追って進学した埼玉栄高校時代は3年時に高校総体団体優勝、全日本ジュニア体重別選手権100キロ以上級優勝など活躍を見せ、アマチュア時代の実績はこの頃が最も充実していた。大学も英乃海の後を追って[[日本大学]]文理学部体育学科に進学したが、大学時代は稽古に真面目に取り組まずに遊ぶようになってしまったという。<ref name="BBMsumo201504p104" />2年の終わりで改心して団体戦レギュラーの座を掴むも3年で左肘の靭帯を負傷してしまった。個人戦では1年から4年連続で全日本相撲選手権出場を果たし1年時と2年時にベスト32の結果を残したが結局もう一つのところで個人タイトルを逃し、結局大学時代は個人無冠に終わった。<ref>[[ベースボール・マガジン社]]刊 『[[相撲 (雑誌)|相撲]]』 2014年4月号(春場所総決算号) 69頁</ref>なお大学の同期生には後に大相撲でも同部屋となる[[大翔丸翔伍|大翔丸]]がいる。
大学卒業間際に日本大学の1年先輩である[[遠藤聖大|遠藤]]を追う形で追手風部屋に入門し、2014年1月場所初土俵。動機は本人曰く「入門するなら勢いのある部屋がいい」とのことで、遠藤から刺激を受けることを望んだという。初土俵となる1月場所は3戦全勝で一番出世。翌3月場所、続く5月場所もそれぞれ7戦全勝として序ノ口優勝、序二段優勝の結果を残した。7月場所は始まる前から優勝した気になり油断したため、7番相撲で[[飛燕力敬介|飛燕力]]に敗れて三段目優勝を逃した。幕下に昇進した9月場所では、高校・大学の先輩で、場所後に十両昇進を決めた[[英乃海拓也|英乃海]]にこの場所唯一の土をつ け、最後の相撲では幼少期から何度も対戦した千代嵐と対戦し、勝利。幕下優勝を飾った。<ref name="BBMsumo201410p068" />優勝インタビューでは「今場所は思い切り当たれる相撲がなく、余裕がなかった。まだ自分には筋肉や本当の地力がなく、感覚だけで取っている。(幕下上位の)来場所は、まずは勝ち越しを目標にしたい」と場所の総括を兼ねて抱負を語っていた
== 主な成績 ==
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