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== 経歴 ==
===ガーンズバックの生い立ち===
ガーンズバックは1884年(明治17年)8月16日に、比較的裕福な[[ユダヤ系]]ワイン商の息子フーゴー・ゲルンスバッハー(Hugo Gernsbacher)として[[ルクセンブルク市|ルクセンブルク]]で生まれた。子供のころ、父のワイン醸造所の雑役夫が呼鈴システム(ベル、電線、バッテリー、押しボタンで構成)を工事している様子をつぶさに観察し電気に興味をもった。やがて通信販売で工作部材を集め、ドア・ブザーと簡易インターフォンを考案し、それを隣家に付けては小遣い銭を得るようになった。また12歳のときに(男子立入り禁止の)女子[[修道院]]のインターフォン・システムを請け負ったが、まもなく13歳となったためローマ教皇より特別の許しを得て工事を続行し完成させたという<ref name="Hugo1">Michael A. Banks "The man who invented the future" ''NUTS & VOLTS'' 2004.8 T&T Publications pp70-74</ref><ref name="Hugo2">Michael Ashley, Robert A.W. ''The Gernsback Days: A Study of the Evolution of Modern Science Fiction from 1911 to 1936'' 2004 Wildside Press LLC p18</ref><ref name="Hugo3">Larry Steekler ''Hugo Fernsback: A Man Well Ahead of His Time'' 2007 Book Surge PiblishingPublishing pp18-24</ref>。
 
===無線研究家としてのガーンズバック===
ゲルンスバッハーは[[ブリュッセル]]の全寮制学校を卒業し、ドイツの[[ビンゲン・アム・ライン|ビンゲン]]にある[[:en:Technische Hochschule Bingen|工科大学]]で[[電気工学]]を学んだ。はじめての[[無線]]実験の経験はこの大学でのことだった。そして高性能の新型[[バッテリー]]を発明したゲルンスバッハーは、これを商品化するために1904年(明治37年)2月、アメリカへ移住し、名前をゲルンスバッハーからガーンズバックに改めたのである。
 
1904年秋、ガーンズバックは新型バッテリーの売込み中に、欧州では当たり前の電気部品が米国では品薄なことに気付き、ニューヨークにThe ElectoroElectro Importing Companyを設立して、輸入電気部品の通信販売を手掛けるようになった<ref>新型バッテリーに関するビジネスは1907年に廃業</ref>。1905年(明治38年)、ガーンズバックはドイツ時代の無線実験の経験をもとに、世界初となる一般大衆向け無線電信機「テリムコ」の開発と商品化に成功した<ref name="Hugo1" /><ref name="Hugo2" /><ref name="Hugo3" />。「テリムコ」は今でいうところの短波から超短波帯の[[火花送信機]]と[[コヒーラ検波器|コヒーラ]]受信機が組になった商品で、同年11月に雑誌広告を出し、全米へ通信販売をはじめた<ref>Scientific American誌 1905年11月25日号 p427</ref>。
 
先進諸国では電信法などや電波法により政府が電波を管理していたが、唯一アメリカだけは電波の使用を国民の自由に任せていた。そのため商業局でも、個人研究家でも、無線機の操作資格や許可証は不要だったためであり、テリムコ無線電信機は「大衆の無線機」として大ヒットとなったのである
 
===無線雑誌編集者としてのガーンズバック===
期のテリムコ・ユーザーは自己の送信機と受信機電波の到達実験距離を試していたに過ぎなかったが、1907年(明治40年)頃より子供たちが趣味・娯楽として相互交信を楽しむ「[[アマチュア無線]]」が子供たちにより形成されていった。通信販売事業においては、いかに魅力的な商品カタログを仕上げるかが重要である。また販売部品の使用方法や技術解説などを丁寧にドキュメント化する必要もある。ガーンズバックはこれらの作業を通じて、無線通信や無線実験を専門とする月刊雑誌を編集・出版することを思い立ったのである。
 
1907年頃のアメリカにはいくつもの科学雑誌や電気雑誌はあったが、無線専門誌はまだなかった。1908年(明治41年)4月、一般大衆に無線界の最新ニュースを提供し、すると同時に無線知識の啓蒙を目的とする、世界初の無線専門雑誌『[[:en:Modern Electrics|モダン・エレクトリックス]](1908~1914年)を創刊した。<ref>『SF雑誌の歴史』p.42-44</ref>ガーンズバックの狙いは的中し、学生を中心に無線実験が全米に広まった。
 
その後もガーンズバックは、『エレクトリカル・エクスペリメンター(The Electrical Experimenter)(1913(1913~1920~)、『ラジオ・アマチュア・ニュース(Radio Amateur News → Radio News → Radio & Television News)(1919(1919~1959~))、『サイエンス・アンド・インベンション(Science and Invention)』(1920~1931年)といった無線雑誌を次々に創刊した。
 
===アマチュア無線家を組織したガーンズバック===
ガーンズバックは1908年(明治41年)12月に発売された『モダン・エレクトリックス』(1909年1月号)で読者に呼び掛けて、無線通信の発展を目的とするアメリカ無線協会WAOA(Wireless Association Of America)を創設し、全米のアマチュア無線家を組織した。その会長を三極真空管の発明者として有名な[[リー・ド・フォレスト]](Lee de Forest)氏に会長をお願いした。アメリカ無線協会WAOAは営利を目的とせず、自分の無線局(含む受信専門局)を持っている米国籍の無線実験家であれば誰でも入会でき、会費は無料である<ref>Wireless Association of America: under the Auspices of “Modern Electrics” ''Modern Electrics'' Jan.1909 pp343-344</ref>。1909年(明治42年)末にはWAOAの会員数3000に達した。ちょうどアマチュア無線の電波が海軍局に混信を与えることが大きな社会問題となり始めた頃であり、アメリカ無線協会WAOAのガーンズバックとリー・ド・フォレスト会長は、短波帯にいたアマチュア海軍局や商業局がいる、使う低い周波数に降りてくることを自粛し、無益なトラブルを避けるべきだと指導していた<ref>Lee de Forest "Wireless Association of America" ''Modern Electrics'' Mar.1909 p429</ref>。
 
1909年5月、ガーンズバック氏はWAOAよりコールブック(無線局名録)"Wireless Blue Book"を出版した。全世界の無線局名録としては米国海軍省が1906年より毎年発行しているが、民間組織による発行はこれが最初である。またWAOAのものにはアマチュア局も収録されており、アマチュア無線のコールブックとしても世界最古のものである。
 
1909年12月に電波を国家管理するロバーツ法案が提出されたが、これにはアマチュア無線の禁止が含まれていたためガーンズバックが反対運動を始めた<ref>''Modern Electrics'' 1910年1月号 p471</ref>。軍用局や商業局へ混信を与える「学生小児実験家」(アマチュア無線家)を締め出す法案とそれに反対するガーンズバックの様子日本の逓信省職員の機関誌ともいえる「通信協会雑誌」で伝えられている<ref>米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案 『通信協会雑誌』1910年5月号 通信協会 p41</ref>。これがアマチュア無線というものの存在が日本に伝えられた最初だった。
 
===SF雑誌編集者としてのガーンズバック===