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== 来歴 ==
ドリス・ハートは幼少時代に深刻な膝の感染症を患い、「このままでは身体障害者になるおそれがある」と診断されたことから、治療のために6歳から[[テニス]]を始めた。当時の医学上の診断では、彼女の病気は「[[急性灰白髄炎|小児麻痺]]」と言われた。(後に、この診断は誤りであると分かった。)病気の影響のため、彼女の足は“弓のように曲がり、動きがおぼつかなく見える”外見になったが、それにもめげず回復してテニス選手になることができた。早くも[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]中の[[1942年]]、ハートは17歳で[[1942年全米
[[1947年]]に[[1947年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の女子ダブルスで、[[パトリシア・カニング・トッド|パトリシア・トッド]]と組んで初優勝を飾り、ここからハートの4大大会生涯「35勝」の記録が始まった。続いて、同じトッドとのペアで[[1948年]]の[[1948年全仏
長い間立ちはだかった大きな壁を乗り越えて、ドリス・ハートのテニス経歴が大きく開花したのは[[1951年]]に入ってからである。この年、彼女は[[1951年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の女子シングルス決勝戦でダブルス・パートナーの[[シャーリー・フライ]]を 6-1, 6-0 で圧倒した。相手にわずか1ゲームしか与えず、試合時間は35分で終了した。ウィンブルドン選手権の女子シングルスでは[[1947年ウィンブルドン選手権|1947年]]と[[1948年ウィンブルドン選手権|1948年]]に2年連続準優勝があったため、ハートにとっては“3度目の正直”の優勝だった。この年から、ハートはウィンブルドン選手権の混合ダブルス5連覇([[1951年ウィンブルドン選手権|1951年]]-[[1955年ウィンブルドン選手権|1955年]])、全米選手権の女子ダブルス4連覇([[1951年全米
混合ダブルスでは、ハートと息を合わせたパートナーは[[フランク・セッジマン]]([[オーストラリア]])と[[ビック・セイシャス]](アメリカ)の2人であった。セッジマンとは[[1949年]]から[[1952年]]までコンビを組み続けたが、1952年末にセッジマンが「プロテニス選手」に転向する。その後はセイシャスと組み、この2人と一緒にハートはウィンブルドン選手権・全米選手権の混合ダブルス5連覇(1951年-1955年)を成立させた。
ドリス・ハートにとって、最後の壁は[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]女子シングルスのタイトルであった。ここでも彼女は何度も苦杯をなめ、[[1949年全米
引退後、1993年に勁部を傷めるまでは28年間ティーチングプロを務めたが、2010年頃になると視力が落ちてほとんど周りが見えなくなってしまっていた。2015年5月29日に[[フロリダ州]]の自宅で死去<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/news/1485473.html ハートさんが死去 4大大会全ての単、複、混でV] 日刊スポーツ 2015年5月31日</ref>。89歳没。
{{DEFAULTSORT:はあと とりす}}
[[Category:アメリカ合衆国の女子テニス選手]]
[[Category:国際テニス殿堂入りの人物]]
[[Category:セントルイス出身の人物]]
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