「椎の木屋敷」の版間の差分

[[水野忠政]]の娘[[於大の方]]は未通女だった天文10年(1541年)に[[松平広忠]]に嫁ぎ、数え年17歳の天文11年(1543年)に竹千代(後の[[徳川家康]])を出産したが、天文14年(1544年)に実家の水野家が松平家と離反したため松平広忠から離縁された。この際、[[岡崎城]]から刈谷の[[水野家]]に戻ってこの屋敷に住んだとされる。江戸時代には屋敷の出入口に鍵が掛けられ、庶民は立ち入ることができなかった。敷地の中央部には数基の[[五輪塔]]があったとされる。於大は天文17年(1547年)に[[阿久比町|阿久比]]の[[久松俊勝]]と再婚し、椎の木屋敷を離れて[[坂部城跡|坂部城]]に移った。<ref name=cityofficial/><ref name=cityofficialpdf/><ref name=kankokyokai/><ref>椎の木屋敷跡現地解説板</ref>
 
[[大政奉還]]後の1871年(明治4年)には井野氏がこの土地の所有者となり、敷地の大部分を[[庭園]]とした上で新たに[[庵]]を設けた。やがてこの土地は宅地化されたが、[[刈谷市]]は1980年(昭和55年)の市制30周年記念事業として土地の一部を取得し、1997年(平成9年)3月13日に刈谷市指定[[文化財]](史跡)に指定した後、1999年(平成11年)には市民に開放する史跡として整備した。於大の座像や東屋のある庭園であり、[[政略結婚]]の末に捨てられた恨みからか、あるいは置いていった我が子・家康を思ってか於大の目線は岡崎の方角に向けられている。<ref name=cityofficial/><ref name=cityofficialpdf/><ref name=kankokyokai/>
 
== 脚注 ==
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