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{{基礎情報 公家
'''藤原 惟通'''(ふじわら の のぶみち、生年不詳 - [[寛仁]]4年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]([[1020年]][[7月25日]]))は、[[平安時代]]中期の[[官人]]。[[藤原北家]][[藤原利基|利基]]流。[[越後国|越後]]守[[藤原為時]]の子。母は不詳。[[藤原惟規]]・[[紫式部]]らの異母弟。[[従五位|従五位下]]・[[安芸国|安芸]]守<ref>『[[尊卑分脈]]』による。『[[小右記]]』では四位まで昇進したとする記述もある(寛仁3年7月13日条)。</ref>。
| 氏名 = 藤原惟通
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[平安時代]]中期
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[寛仁]]4年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]([[1020年]][[7月25日]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[安芸国#国司|安芸守]]<ref>『[[尊卑分脈]]』による。『[[小右記]]』では四位まで昇進したとする記述もある(寛仁3年7月13日条)。</ref>
| 主君 = [[後一条天皇]]
| 氏族 = [[藤原北家]][[藤原利基|利基]]流
| 父母 = 父:[[藤原為時]]
| 兄弟 = [[藤原惟規|惟規]]、女子、[[紫式部]]、'''惟通'''、定暹、<br/>[[藤原信経]]室
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}
 
'''藤原 惟通'''(ふじわら の のぶみち、生年不詳 - [[寛仁]]4年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]([[1020年]][[7月25日]]))は、[[平安時代]]中期の[[官人貴族]]。[[藤原北家]][[藤原利基|利基]]流[[越後国#国司|越後]][[藤原為時]]の子。母は不詳。[[藤原惟規]]・[[紫式部]]らの異母弟。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[安芸国#国司|安芸]]<ref>『[[尊卑分脈]]』による。『[[小右記]]』では四位まで昇進したとする記述もある(寛仁3年7月13日条)。</ref>
寛仁3年([[1019年]])7月、[[常陸国|常陸]]介に任ぜられ、翌寛仁4年(1020年)7月3日に任地で卒去した。享年不詳だが、40代前半だったと思われる。
 
== 経歴 ==
惟通が没した後も、彼の母(式部の継母にあたる)と妻子は帰京せずに常陸国にとどまった。これは常陸国に惟通とその一族が所有する[[荘園]]があったことを意味している。惟通が没した年の寛仁4年(1020年)閏12月26日、惟通の[[未亡人]]が[[平為幹]]に[[強姦]]されるという事件が起こった。惟通の母の訴えにより、為幹は[[逮捕]]されて身柄を拘束されたが、翌年には赦免されている。
[[寛仁]]3年([[1019年]])7月、[[常陸国|常陸]]に任ぜられ、翌寛仁4年(1020([[1020]])7月3日に任地で卒去した。享年不詳だが、40代前半だったと思われる。
 
惟通が没した後も、彼の母(式部の継母にあたる)と妻子は帰京せずに[[常陸国]]にとどまった。これは常陸に惟通とその一族が所有する[[荘園]]があったことを意味している。惟通が没した年の寛仁4年(1020年)閏12月26日、惟通の[[未亡人]]が[[平為幹]]に[[強姦]]されるという事件が起こった。惟通の母の訴えにより、為幹は[[逮捕]]されて身柄を拘束されたが、翌年には赦免されている。
== 関連項目 ==
*[[平為幹]]
 
== 脚注 ==